仕事の依頼をするときは、必ず「いつまでにやってほしい」と書かないといけない。そうしないと、いつまでもやってくれないからだ、と昔職場で教わった気がする。
なんとなく理屈はわかる。ただでさえいそがしいのだから、期限をもうけないと、どんどん先伸ばしにされる。
その意図はわかるのだけれども、最近はこの考えに、もやっとするところがあるので、そのことについて、書きたいと思う。
そもそも先伸ばしにされるってことは、その依頼はいやなものなのではないか。
だから、ここまでにはやってくださいという依頼がないと、やらないのではないか。
であればそもそも、いやな仕事を依頼しているところに、問題があるのではないか。
いやな仕事は振るべきではない。
その依頼主にとって、相手にとっていやだろうと思う仕事は、依頼すべきではないが、やっかいなのが、当の本人は相手がいやがると思ってやっていないパターンだ。
これだと本人はよかれと思ってやってくるので、受け手側が「いやだ」と意思表示しないと、永遠に当の本人はその依頼をしてくる。だから、自分の意思表示はしなくてはいけない。
ぼくは仕事をうけて、その仕事に期限がついていると、いやだなぁと思ってしまう。
特に、やる気がおきない仕事や、期限が短い仕事、そして依頼完了までのマイルストーンが立てづらい依頼がくるとげんなりしてしまう。
そして一日一日期限に近づくと気分が憂鬱になってくる。
これはどうしたら解決できるのか。まずはその仕事をやりたくないと思っていることを、自覚したほうがいい。そしてその仕事はやらないべきなのだ。
しかし、仕事だからとか、相手に悪いからという、よくわからない理由で、それを躊躇してしまったりする。ここも大きな問題である。
仕事だから、依頼は断ってはダメ?そうしたらどんな仕事でも、うけるのか。そんなことはないだろう。
相手に悪いから?ぼくにとって都合が悪い仕事は、ぼくを疲弊させる。ぼくが疲弊して倒れてしまって一番困るのは誰か。それはぼくであろう。だから、まず第一優先すべきはぼくなのだ。ぼくを守ることを決められるのは、ぼくしかいない。
たまに相手が守ってくれると思われることもあるが、それはたまたまぼくを助けることが、本人のメリットになっているから助けているのだ。
人間は全員自己中心的にできていると思う。見かけは人のためのように思えても、その底には自分がいる。自分の思うようにしたいという願望が巣作っている。
だから相手のためとか思うのはやめよう。それは相手のためでなく自分のためなのだ。そして相手にフォーカスするのではなく、自分にフォーカスしよう。
自分を守れるのは自分しかいない。
依頼の期限の話に戻そう。
期限がついたり、というか来た時点でいやだと思った仕事はするべきではない。
でもいろいろな理由でその仕事は断れないと思ってしまっているとしよう。
そのときは「これはやりたくない」と外部に意思表示すべきだ。そうしないと、最初の方に話をしたように、永遠に依頼主はその仕事を振ってくる。
人間、テレパシーは使えないので、いやなことはいやと、外部にその意思を表示しないと、ずっと相手はわからない。ちゃんと意思表示することは、生きるうえでの自分の責任だと思う。
しかし、意思表示すると相手から否定されるという恐れを抱くこともあるのではないか。少なくともぼくは意思表示することにより、その意思を否定されることを恐れる傾向にある。
「ぼくはこの仕事をやりたくありません。○○○○という理由だからです。」
「なにを言っているんだ、ふざけているのか。おまえ給料をもらっているんだろう、舐めているんじゃねぇ。いいからやれよ」
という声がぼくの頭のどこかから聞こえてくる。実際にそんなことは言われていないのにだ。
おそらく今までの経験上、そんなことを言ったら否定されるという集合知みたいなものが、自分の中でできあがっているんだと思う。
人間は社会的な生き物で、集団生活を営む。だから集団から阻害されるのを恐れる動物だと思う。
だからその集団にはそぐわないことを、自分の本心として思ってしまった時に、押し込めてしまう。その本音を言ったら集団から阻害され、生死に影響が出てしまうからだ。
これが仮に無人島で、10人しかいなくてそこで協力して生きていかないといけない環境で、その集団にそぐわない行動をするというケースだったら話は別だろう。
集団から阻害されたら、死につながる可能性が高いからだ。
その本能みたいのがあるのか、仕事においてもその認識は適用されてしまう。
しかしこの社会において、一つの会社にとってはそぐわない行動・言動をしたからといって、それが即、死につながるかというと、そうではないだろう。
考えすぎなのだ。その会社から離れることに対して。別にその会社を否定しなければよい。会社の方針も、もちろんわかるし正しいと思うが、一方ぼくはこういう感情や考えを持っている、と。
それで自分に対して評価が下がるのであれば下がればいいと思う。そこにはぼくは適していないのだ。
サボテンはそんなに水がなくても生きれる植物だ。逆に水をあげすぎてしまうのはサボテンにとって良くないことだろう。
サボテンがよく雨が降るアマゾンで生きれるかといえば生きれないだろう。そんな環境では生きられないから、その環境で生きるのはやめて、砂漠のような乾燥地帯に移るべきである。
サボテン自体が悪いとか良いとかそういう次元ではない。単に合っていないのだ。合っていないのだったら環境を変えればいい。それは逃げではない。『適用』と呼ぶのだ。
人間はサボテンと違って、元々生まれる場所が、一番適した場所であるとは限らない。人間は多様性が激しく、生まれた場所イコール生きていく場所とはならないケースもあるだろう。
自分で環境を変えれるために、人間には足がある。意思がある。あるのに有効に活用しないのは、実にもったいないし、あるべき姿ではないと、ぼくは思う。
今日は以上になります。
お読みいただき、ありがとうございました。
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