みなさん、こんにちは。今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、いつもとちょっと趣向を変えて、宇宙について考えたいと思います。
我々は地球という星に住んでいて、そしてその地球は宇宙の中に浮かんでいます。
140億年くらい前に宇宙はできたと言われていますが、じゃあできる前はどんな状態であったか、気になった方はいませんでしょうか。
ぼくはこれがずっと気になっています。だって、要は何もない状態=無、から宇宙という存在を生み出したわけですよね。何もないところからなぜ何かを生み出すことができるのでしょうか。
実は、宇宙ができる前はどんな状態であったのか、その自分なりの解を導き出せてはいません。しかし、この何もない状態、いわゆる”ゼロ”から、何かを生み出す”イチ”の概念が理解できれば、それを発展させて何もない状態だったところから、宇宙という存在を作りだせた理由に近づける気がしています。
そのため今回はゼロからイチを生み出すという考え方について、話をしていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
例えば腕立て伏せを1回やってみる
ここからは例を交えて話をしていきます。
今ぼくが腕立て伏せを1回やってみるとします。
うつ伏せに寝っ転がり、肘を曲げて伸ばす。そうすると体は床から離れます。これで1回。できてますよね。
これは腕立て伏せが0回だった状態から、1回という状態に変化したわけです。これも言ってしまえば、腕立て伏せが”ゼロ”だった状態から”イチ”を作り出したわけです。
これはどうやって生み出したのでしょう。筋力的な問題は後に置いておいて、まず、腕立て伏せとはなんぞやという定義付けをしなければなりません。
うつ伏せに寝っ転がり、肘を曲げて伸ばす。これが腕立て伏せというものなんだと定義してやらねばなりません。そこから筋力的に可能なのかという問題になるわけです。
ですので、まずなにかを生み出すには、「そのなにかとはなにか」を定義してやる必要があるのです。これがゼロからイチを生み出す上でまず第1にやらねばならないことだと思います。これをこの文章内では「定義付け」と呼ぶこととします。
100kgのベンチプレスはできるか
次に、100kgのベンチプレスをすることは可能かを考えてみたいと思います。
まず定義付けをします。台の上に仰向けに寝転がり、鉄の棒の両端に重りを乗せて、それが100kgになるようにし、それを持ち上げたり下げたりする。これが100kgのベンチプレスと定義付けします。
ではこれが現実的に可能かと言われると、ぼくにとっては不可能です。なぜならそれができる筋力を持ち合わせていないからです。ゼロはゼロのまま、イチにはなりません。
このように、いくら定義付けができたからといって、なんでもできるわけではなく、さまざまな問題でできないことがあるのです。
他の例で言うと、今すぐにアメリカに瞬間移動したいと思ったとします。瞬間移動できてない状態から、瞬間移動できたことを、ゼロイチと考えると、瞬間移動とは瞬時に長距離離れた場所に移動することと定義付けができても、実際にそれをすることはできません。これは物理的に不可能だからです。
しかしこれは当然と言えば当然です。定義するだけでなんでもできてしまえば、それは夢の世界です。思ってなんでもできるのは夢の世界だけで十分です。なんでも思うだけでできてしまえば、この現実世界は実につまらないものになってしまうでしょう。
ゼロイチを行うためには、まず定義付けが必要。しかしこの現実世界ではできることとできないことがある
このゼロイチの話をまとめると、下のようになります。
しかし宇宙のことを考えると、この考え方が当てはまるとは決して言えません。
インド哲学の考え方の1つに、「あらずあらず」というものがあります。
これは、「認識するものを認識することはできない」ということなのですが、これは一見しただけではその概念を理解するのは難しいと思います。
例えば、今自分がいて、その存在を認識している自分がいます。自分という存在を上から見ているような感覚です。
しかしよくよく考えると、Bも認識しているわけですから、A←Bと同じように、Bを認識する自分がいるはずです。そうでないと認識することはできないからです。
これはお気づきの通り、永遠に続きます。合わせ鏡のように、認識するという行為が他者に向けられている限り、永遠に続くのです。
この考えを応用すると、人間というものがいます。それは科学の発展により、分子や原子によって作られていることがわかりました。そしてその分子や原子たちも、さらに小さい素粒子というものからできていることがわかりました。
しかし認識するものを認識できないという考えの通り、これは永遠に続いてしまうのです。もしかすると素粒子よりさらに小さい単位があるかもしれません。なにかあるということは、その前には必ず何かあるということなのです。
もし仮に素粒子が最小の単位だったとして、次なる問題はどうやってその素粒子(イチ)がゼロから生み出されたかを考えなければなりません。ここの解がぼくの中でまだ生み出せていません。
インドでゼロの概念が生まれたことは有名ですが、ぼくは今度はこのインドのゼロの概念について調べたいと思います。
このブログ内で紹介した、「あらずあらず」、「認識するものを認識することができない」の考え方については、飲茶さんの「最強の哲学入門 東洋編」にわかりやすく書かれていますので、リンクを貼っておきます。哲学の話は理解という腑に落とすまでが大変なのですが、飲茶さんの本は本当にわかりやすく概念を理解することができました。東洋編は難しいので、まず西洋編から着手されることをおすすめします。
今回は以上になります。お読みいただき、ありがとうございました。
ゼロから1にするには認識から、深いですねー。