いつも朝、保育園にふたりの子どもを送っていくのだが、これがなかなか大変。
日によって気分は違うし、なかなか上手くいかない。
ぼくは早く行きたいのだけれども、なかなか朝ごはんを食べてくれなかったり、着替えに手間取ったり、かといえば玄関でぐずったり・・・。
それも終わり、疲れて家に帰ってきて思うことがある。
ぼくは早く保育園に子どもを預けたい。
対して子どもたちは、まだ遊びたかったりする。
要は、ぼくと子どもたちとのやりたいベクトルが合っていないのだ。これではうまくいくはずもない。
昔、中学生とか高校生だった頃、反抗期という時期もあってか、両親に対し、どうして生んでくれと頼んだわけでもないのに、生んだのだと思ってしまっていたことがある。
それはそれで事実なのだが、この世界には生まれたくても生まれない命もあるわけで、そんな命を粗末に扱う言動をしてしまっていたことについては、深く反省している。ただ当時のぼくはそう思ってしまっていたのだ。
ぼくも親になって、子どもたちが大きくなったら、こんな風に思われるのかと思ったら、少し悲しくなった。
そんな中、親というのは子どもにとって、どれほど責任を持つべきなのかという点が気になったので、書いていきたいと思う。
親の子に対する責任とは
世の中は広いもので、今の日本のように核家族化して、世帯の人数が減っているのに対して、子どもをその村や集落で育てるといった文化を持つ人たちもいる。
生んだのはその両親だけれども、育てるのは祖父母や親戚、もっというとお隣さんも含めて、その子を養育し、責任を持って対応している。
別にどっちがいいという話ではないが、世の中にはいろいろな形の育児があるということだ。
また、ネットを見ていると、面白い視点で育児について語っている方もいた。
その方は育児に対する親の責任について、成人するまで、社会から預かって養育していると書かれていた。
ぼくはこの考え方にかなりシンパシーを感じた。確かに生物学的には生んだのは紛れもないその両親であるが、その両親が決めたというよりは、子孫を残すという生物的本能に従って子どもを作ったという意味合いが、ぼくにとっては感覚的に正しい。
もちろんパートナーへの愛情はあるが、それよりも自然な形で子どもができたといった形が、感覚的に近い。
このように、自分が子どもを生むと決めたというより、生物としてやることをした、といった方が近い。そうなれば、その親に養育する責任があるというよりも、人類として子孫(子ども)を育てていくといった方が正しいのではないかとぼくは思う。
前述したように、ぼくは反抗期の時、なぜ生んだのかと両親を少し恨んだような感覚を持ったとあるが、もし祖父母と同居していたのなら、また違っていたと思う。その両親も祖父母がいなかったらいないわけだし、たまたま同居している肉親が両親だけだったという気もする。
では、そもそも責任とはなにか
さて、ここまで育児に関する責任について話してきたが、ここまで話すと、そもそも”責任”とはどういったものなのかと考えたくなってくる。
よく仕事で、「もっと責任感を持ってやれ」とか、「責任感のないやつだ」とか聞いたことはないだろうか。ここでいう責任感とはなんなんだろうか。
おそらく、企業人としてやるべきことが決まっていて、それに対して履行ができなかったり、する気がなかったりすると、こう言われてしまうのではないか。
あと冒頭の例の育児に関する件もそうである。親に対する子どもを養育する”責任”と言えば、よく使われるワードではないだろうか。
このように、もうあるべき姿が決まっていて、それを満たせなかったり、満たす気がない場合、責任感がないと言われてしまうようだ。
責任感がないやつとか人だと思われた人はどうなるのだろうか。おそらくその組織、その役割を果たせないということで、違う役割をあてがわれるだろう。そしてその役割たちも満たせなかった場合、その組織には不要だということで、捨てられる末路だろう。
まあ簡単に言ってしまえば、組織から追い出され、食いっぱぐれる可能性があるわけだ。
食いっぱぐれるとどうなるか。最終的には死に繋がっていくだろう。
ここまで来ると、”死”とはなんだろうかと考えてくる。
死について考える
眠るように死ぬ、という言葉があるくらいだから、眠っていくように意識を失っていく感覚なのかもしれない。
眠るのと同じであれば、死もだいぶ怖くなさそうな感じはするのだが、死にはついてくるものがある。それは”痛み”や”苦しみ”である。
これらはなぜ発生するかというと、”痛み”や”苦しみ”から逃れることによって、死ぬことを避けられるからである。手を切って血が出ているのに痛くなかったら、出血多量で死んでしまう。痛みや苦しみのおかげで、死ぬことから避けられているとも言える。
ぼくはこの痛みとか苦しみが嫌いである。あんな痛いのはごめんである。嫌なのは死というより、あれらの痛みや苦しみである。
ここまで色々と話をしてきたが、人生における最悪の結果は”死”とも言えそうな気もしてくる。あまりいい例ではないかもしれないが、人生をゲームに例えると、ゲームオーバーで、これ以上ゲームを続けられないのが、”死”とも例えられる。
そうなると、組織から不要と判別され、食いっぱぐれた個人が行く先はどこかというと、最悪地点は死であると言える。
もし仕事で責任感なく仕事をして、食いっぱぐれてどうなるかといったら、最悪は死。
要は、責任感なく物事に対処していてどうなるかといったら、最悪死ぬことになるかもしれないということだ。
ぼくらはいろいろな不安や心配事を抱えながら生きている。どうしようもなく大きな不安に押しつぶされそうな気がする。
でもその最悪の事態を考えると、結局は”死”なのである。それ以上はない。(死んだ後の世界がなければ。) そして死ぬのが怖いのは、そこに嫌な痛みや苦しみがいるからである。
ぼくの場合、ここまで考えると、だいぶ気が楽になってくる。そうか、いろいろ不安や悩みはあるけれども、最悪死ぬだけか。最悪のケースが想定できると不思議と気が晴れてくる。(まあ絶対に死にたくないが。)
前に、会社を辞めてフリーランスになった人に聞いたことがある。辞める時に不安はなかったのかと。
そうしたら、人生は一度きりだからという理由とともに、「まあでも最悪死ぬだけだからね」と言っていたのが印象的だった。
その時は失礼ながら、強がりかなと思ったりもしたが、今になって、あの言葉に深く同調できるようになってきた。
明石家さんまさんの、「生きているだけで丸儲け」という言葉は有名である。死んではもう何もできないが、生きている限りはなんでもできる。
過度に不安と戦うのではなく、最悪のケースを想定して、自分の道を歩いて行こうと思えた日であった。
今日は以上になります。
今日もお読みいただいて、ありがとうございました。
コメントを残す