(36) あなたのせいだ、と言われた時のあのグサッとくる感じ

あなたのせいで、うまくいってない。

あなたがもっとうまくやっていれば、こんなことにはなってない。あなたのせいだ。

こんなことを言われた時、心という柔らかいものに、サクッとナイフで刺されたような感覚になる。(実際に刺されたことなんてないけど)

やっぱり人間は集団で事をなす動物だから、周りの人の期待に沿えなかった時は、暗い気持ちや、申し訳ない気持ちになるように、インプットされているんだろう。

でも一言言いたい。

そんな、あなたのせいだと言われても・・・・

知らんがな・・・笑

その人が勝手に自分に対して期待して、その期待に沿えなくて意気消沈しているだけである。

これの代表的な例がある。それは電車の遅延である。

電車が遅れたせいで、待ち合わせに遅れる。何度電車は遅刻の理由にされてきただろうか。

確かに、電車がいつも通りの時間に来ていれば、待ち合わせには間に合っただろう。

こうなると、電車というのは、待ち合わせに間に合うための「手段」ということになる。

しかし、例えば列車の旅に出ていて、その列車に乗ってゆっくりするのが目的であったならばどうだろう。

たとえ少々電車が遅れても気にはならないはずだ。むしろそのトラブルを楽しむ余裕すらあるかもしれない。

ぼくも電車は移動の「手段」ではあるけれども、同時にゆらゆらと電車に揺られリラックスできるという「目的」も持っている。だからたまに急行列車ではなく、各駅停車に乗って、リラックスする時間を増やしたりするくらいだ。

このように電車というものを「手段」ととらえるか、「目的」ととらえるかで、だいぶ変わってくる。

多分その人は自分に対して、何か手段という目線で見ているのだろう。何かサービスを提供してくれるはずなのにそれをしてくれない。そこに不満があるのだろう。

人間誰かと関わる時は、その人に何か「機能」を求めている時が多い。この人は文章を書くのが上手だから付き合っておこう、この人は友達が多いから付き合っておこう、この人はお金をたくさん持っているから付き合っておこうとか、何か条件があってコミュニケーションを取っていることは多いだろう。

しかし、友達は違う。なんでその人たちと付き合うかといえば、気があって、楽しいからだろう。なぜ楽しいかと聞かれても答えられないだろう。なんとなく昔から気が合っているとか、それまでの関係性とか、その人たちとどういう時間を過ごしてきたかで、お互いの関係性は変わってくるだろう。

友達とは不思議なもので、なぜ好きなのかがよくわからない時が多い。なんとなく言い表すことはできる。自分とは対照的なところも面白くて付き合っているとか、落ち着くからとか、面白いからとか。でも大部分は「なんとなく」ではないか。そういうフワッとした関係性が友達な気がする。

それはここが好きだからというピンポイントなものではなく、もっとその人自身という全体的なものだ。

人間関係で、「あなたはこうすべきだったのにやらなかった、ひどい」という時は、その人に何かを期待していて、その見返りが得られなかった時に出るセリフだ。それは相手に対して、何か「機能」を求めている。それが機能しなかったから不満なのだ。

それは電車が遅れて遅刻することに似ている。時刻通りに運行するという機能を果たさなかったからだ。

電車くらいだったらいいが、人間は違う。人間に「機能」を求めるのは間違っているし、失礼である。それはその人を電車などと同じ「機能」としてしかとらえていない。友達だったらそんなことはない。よく約束に遅れてくるけど、それを許せてしまう時もあるだろう。それもひっくるめてその友達なのである。もしそれがいやだったら、友達関係は抹消されているであろう。もしよく遅刻していてもまだ友達でいるのであれば、それはその遅刻グセも含めて受け入れられているのだろう。

そもそも何か機能を誰かに求めるのは間違っている。機能が優先される時その人のパーソナルな面は消される。その機能を果たせれば誰でもいいということになる。その機能を提供してくれるのはその人なのにだ。

これにぼくはなんとも悲しい気持ちに感じる。この人はぼくじゃなくてもいいんだ。この機能を確実に果たしてくれる人だったらいいのだ。であれば人間である必要はない。機械でいい。でも機能を果たすだけの機械だけの毎日で、本当にいいのか?いいはずがない。目的を果たすのはその目的を達成した時の達成感が気持ちいいのもそうだが、その達成までに至る道が楽しいからやるのである。

登山も山頂から見る風景も圧巻であるが、そこに至るまでに登るところにも価値がある。ロープウェイでサクッと頂上までいくのもいいが、そこはケースバイケースで山頂にすぐ行きたいだけだったらロープウェイを使えばいい。でも登山しながら仲間と喋ったり途中でお弁当を食べたり、植物に触れ合ったり深呼吸をしたりすることに登山の醍醐味があるのではないだろうか。

料理だって、できたのを食べてもそれは美味しいが、食材を買ってきて調理してそして食べるからこそ、美味しく感じるのではないだろうか。

人間は究極に遠回りをする動物である。わざわざ他の動物は山に登ったり、苦労して料理なんかしない。山に登って余計に体力を使うことはない。料理も栄養価だけ取れれば毎回同じ食べ物でいいのだ。

しかし人間はそういうことはしない。無駄な事をする。これは生きることが目的だった動物が、生きることをクリアしてしまい、ゲームでいえば全クリしてしまったのである。全クリしたら次は何をするか。全クリした世界を自分なりに楽しむしかない。もう人類はそのステージに至っているのだ。

山頂に行く、それが目的であればロープウェイに乗ればいい。それは否定しないし、ぼくもそれをすることもあるが、ぼくはもっと無駄な事をして、それをその人と苦労しながら進めていって、そして最後に山頂でハイタッチをする、そんな人生を送りたい。もっと目的達成以外の所の価値を感じてほしい。もしそういう面倒くさいことがいやだったら、ぼくから離れていってほしい。ぼくも急に山頂に連れていかれるのはゴメンである。ぼくは面倒くさくて、人間くさいのだ。

以上

2022-09-24|
関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です