あるべき像からの脱出

このブログを書いているのは、平日の深夜2時になる。

ずっと考え事をしていて寝れずに、やっとなにかの糸口を見つけられそうなので、筆を取っている。

今、ぼくを悩ませている課題は、「こうあるべき」といったいろいろな像からの呪いである。

ぼくは本当にたくさんの「こうあるべき」という像を持っている。

  • 父親だったらこうあるべきだ
  • 良い夫とはこうあるべきだ
  • 会社に利益を貢献しなければいけない
  • 良い営業マンとはこういうものだ
  • 礼儀正しい人間でなくてはいけない
  • 栄養がしっかりと取れた食事を取らなければいけない
  • 約束は守らないといけない
  • 遅刻をしてはいけない
  • 太っていてはいけない、もしくは痩せすぎていてはいけない
  • お酒を飲みすぎてはいけない、ジュースも飲みすぎてはいけない
  • 歯は毎日磨かないといけない、風呂も毎日入らなければいけない
  • 先輩には礼儀正しく、後輩には優しく接しないといけない
  • 子どもたちにはテレビを見せすぎてはいけない、適度な運動をさせなければいけない

・・・言い出したらキリがない。でもこれを見ているあなたも、「こうあるべき」という像に悩まされてはいないだろうか。

ぼくはこの理想像に合うように、努力してきたつもりだ。そしてまだ理想に達していない部分を憎み、改善するよう心掛けてきた。

しかし30も半ばになってくると、段々理想像を追いかけるのに疲れてくる。なぜならこの理想像は一つの位置に立ち止まってくれているものではなく、年月や自分の成長とともに、どんどんエスカレートしていくからだ。

例えば企業の業績も、最初の年は1000万円の売上を達成できればよかったことが、それが翌年は1200万、その翌年は1500万とドンドン上がっていく。

数字の目標を立ててしまうと、数字自体が無限であるために、いつまで経ってもゴール(理想像)にたどり着けない。山を登って頂上を目指しているのではなく、ジムにあるランニングマシンで永遠に走らされているようだ。

理想は達成したとしても、その次の理想や目標がすぐできる。そしてまた走り出す。このように理想を追いかけることが好きだったり、性に合っている人はいい。

ただぼくの場合は、数字は無限に続くことを知っているから、このラットレースに興味がまるで持てない。

この理想像のことを考えると、無限に続く道を走っているようで、かなり気分が落ち込んでくる。しかもその理想像に達していない部分があると、それを自分で責めて追い立て、理想像になるようにけしかける動作をしてしまうので、余計に疲れてしまう。

ケージの中でネズミが台車で走らされていて、少しでも遅くなると罰を与えれられるような感じに似ている。

ぼくはこの状態から脱したい。そのためにはどうすれば良いのか。

一つ思ったことがあったので、ここに記しておきたい。

ぼくは理想像になれるように努力してしまうが、それでは一体ぼくとはどういう存在なのかと、疑問を持つことがある。

つまり、ぼくとは現時点存在しているまさに自分を指しているのか、それともその理想像自体なのかということである。

描いている理想がぼくだとしたら、それに達成していない自分が存在しているのが許せない。だから自分を罰して理想になれるように、けしかけているきらいがある。

その理想像が”ぼく”ではないとしたら、その理想像になれるように必死で頑張っているのがぼくなのか。それもなんだか違う気がする。

ぼくとは、人が大変で苦しんでいる時に、条件反射で手を差し伸べるところが、一番ぼくらしいと感じる。

それに、その理想像に達していないのに、家族や友人はぼくと今まで接してきてくれている。そう思うと、理想像ではなくあるがままの自分でいいのではないかと思えてくる。

もちろんこれは努力の行為を否定しているわけではない。努力は必要だと思っている、しかし何がなんでも努力”しなければいけない”のは、間違っていると思う。自分が本当に頑張ろうと思ったことだけ努力すればいいと思う。

弓道でも矢で射る時だけ弓を引いてしならせる。いつも弓をピンと張っているわけではない、あくまで射る時だけだ。

このようにいつも努力しなきゃと気を張るのではなく、ピンポイントで努力はすればいいと思う。ずっと弓を引いていたら、弓の弦自体がゆるゆるになってしまうのではないか。

もっと肩の力を抜いて、今が理想像から全然遠い状態でも、それがどうした。それでも変わらず接してくれる家族や友人がいる。それで十分じゃないか。もし理想像に達していないぼくを切る人がいても、それはぼくを道具としてしか見ていないのだろう。

もちろん道具として、スキルとしてぼくのことを買ってくれている人もいるのだろう。しかしぼくは道具ではなく人間である。道具は意思がないが、人間にはある。選ぶ権利がある。

世の中はうまくできている。不要だと思うもの同士は自然に離れる仕組みになっている。ではその摂理にぼくは従おうと思う。ぼくはぼくの信じる道を突き進む。捨てる神あれば拾う神あり、と言う。実際拾う神にも何人にも会ってきた。だからぼくはそれを信じ、孤独感を感じることはあっても、先に進んでいきたいと思う。

今日は以上です。ちょっと、読んでくれた方にどんな有益な情報を与えられたか分かりません。すみません。

またよかったら遊びにきてくだい。読んでいただき、ありがとうございました。

島崎 純也

2022-03-05|
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