みなさん、こんにちは。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
今日は、「仕事」についての話をしようと思います。
仕事とは本来しんどいもの。しんどいことをするからこそ、その対価として給料が支払われる。そうずっと思ってきました。
しかしここに違和感を感じ、その違和感の正体を突き止めてきました。
痛かったりしたらそこから離れるのが普通なのに、なぜ仕事や働くことに対しては、それでも我慢してやり続けなければいけないのか、そこを探っていきたいと思います。
通常、嫌なものからは離れる
熱いやかんを触ったら、思わず手を引っ込めます。それはもう条件反射ですが、体が直感的に「これは触っていたらまずい!」と察知し、考えなくても手を引っ込めてくれるのです。とても便利で賢い機能ですよね。
また、もし手を切ったとすると、そこに「痛み」が発生します。痛くてその痛みから解放されたいから、その怪我を回復させるため、色々と治癒するわけです。
そして、何か怖いもの、例えば山で熊なんかに出くわしたら、襲われないようにすぐにその場から立ち去るわけです。まあ熊の場合は死んだふりをするなど対処法はあると思いますが、ここでは「怖いものからは距離を置く」という例として取り上げさせてもらいます。
このように通常人間の思考回路としては、「嫌なものからは避ける」というのが通例となっています。これは嫌な状態が続くと、自分の生命を脅かすため、それを排除しようとしています。
熱いやかんを触りっぱなしだったら、火傷を負ってしまう。
怪我を放っておいたら傷口からバイ菌が入って、更に深刻な状態になるかもしれない。
熊に襲われるかもしれない。
そこから脱するために、「痛み」や「怖さ」など、いわゆる『ストレス』状態にしてその場から脱しようとします。
前の記事「焦りに対して、ありがとうと言う」で、焦りとは、馬にムチを打つ行為と似ていると書きましたが、それと同じように、痛み・つらさ・怖さなどは、一定のストレスを与えることでその場から逃げようとする一種の”劇薬”なのです。
まさに「肉を切らせて骨を断つ」。多少の犠牲を払うことで、更に悪化するのを防ぐわけです。本当に人間というか生物はよくできているなと感心します。
嫌でもなぜ仕事に限ってはやり続けるのか
ではここまでで、普通は、ストレスというか嫌だなと感じるものからは、避ける傾向にあることが説明できたと思います。
それでは仕事の話に移って、もし「仕事するの大変だな、嫌だな・・・」と思ったとしましょう。でも仕事はしなければいけないからやる・・・。
仕事を嫌がる理由はその場面、その人ごとに異なりますが、ここで重要なのは、嫌だと思っているのに避けていない、逃げていないということなのです。
先にも言いましたが、基本的に人間は嫌なものから避ける傾向にあります。ですがなぜ仕事だけは嫌だと思っているのに逃げずにやり続けるのでしょうか。
これは人間特有のものなのかもしれませんが、熱いやかんから手を離すのが「先天的逃避」としたら、仕事は嫌だと思いつつもやり続けるのは「後天的逃避」だと定義しています。こちらの内容について、次から話していきます。
先天的逃避とは
先天的逃避とは熱いやかんからは何も考えずとも手を引っ込めるように、直感的で頭より先に手が出るようなタイプです。
嫌だなぁと頭で考えるより先に、「これはまずい!」と直感的に感じるところがあれば、すぐに自動にその嫌なものからは避けてくれます。あまり考えることがないので、脳へのストレス負担も少ないです。これを先天的逃避とぼくは呼んでいます。
後天的逃避とは
いっぽう後天的逃避とは、今はちょっとつらいけど、ここから逃げるとさらに悪い状況になる。だから今は我慢してやろうという、先を見越して行動することを指します。
例えばさっきの仕事の例で言えば、今は仕事がつらいけど、今やめると再就職も難しそうだし、今仕事を辞めたら今よりさらにキツくなるかもしれない。だから今は我慢しよう、と、未来にある”嫌なこと”を見越して、今の状況を耐えています。
これはどちらかというと、今まで色々な集団に属してきた中で、これをやったら嫌われるだろうなとか、これをやったらまずいことが起きるなという、自身の経験や周りからの教えに基づき自分の中で積み重なってきたデータベースから、どの行動を選択するべきか決めています。
このように、生まれつきのものではなく、生まれてから生きてきた中で培った経験をもとに、嫌な状況を回避する行動を、「後天的逃避」と呼んでいます。よく考えてから行動するため時間もかかりますし、労力もかかります。
先天的逃避と後天的逃避を比較すると次のようになります。
後天的逃避では、考えすぎると病む
仕事は後天的逃避である、と書きました。
これは今ある仕事への嫌な気持ちと、後々仕事を辞めてしまった時に起こる状況を天秤にかけ、後者の方が重要であると判断し、今の状況に耐えているわけです。要は、仕事を辞めて食いっぱぐれる状況から逃避したわけです。
それでは「仕事は多少つらくても歯を食いしばってがんばらなきゃいけない」と言われるのはどうしてでしょうか。ぼくはこれはまさに後天的逃避で、仕事を辞めると大変なことが起きる(食いっぱぐれる)から、今のつらさくらいは我慢しろ、というメッセージなのだと思います。
ここで、仕事→つらい→辞めちゃだめ→なぜ?→食いっぱぐれるから→でもつらい・・・という負のループに入ると、いつか心を病んでしまいます。
食いっぱぐれから避けるのと、仕事辞めたいという重りが同じくらいになると、自分という棒はその両方の重さに耐えきれず折れてしまうのです。
真の逃避とは
ではどうすれば、このような事態から”逃避”できるのでしょうか。そのためには二者のうちどちらかを選択する必要があります。二兎を追うものは一兎も得ずで、どちらかを選択すれば、棒として耐える必要がなくなります。どちらかを選択する必要があるのです。
例えばここで「仕事を辞める」ことを選択したとしましょう。ですが、食いっぱぐれるという恐怖は並大抵のものではありません。そのためここで考え方を変える必要があります。
ここで先程の「仕事はつらいものだ、つらいからこそ対価が得られる」に戻ってみましょう。このロジックは真でしょうか。偽でしょうか。
そもそも仕事とはつらいのか、から見ていきましょう。いえその前につらいとはなにかから考えてみましょう。
冒頭からつらさとは、嫌な状況から避けるための劇薬だと話してきました。ありたい姿(嫌な状況から逃れる)と現状にGAPがあるため、それを埋めるためにつらいという感情を利用してその場から逃げるのです。
仕事とはがんばらないといけないくらい目標が高いところにあり、それと現状にGAPがあるからつらさが発生するのだと思います。そしてそのGAPを埋める=仕事を完遂するからこそ、相手の感謝を得られ、対価としてお金を受け取ったりすることがあると思うのです。
ですから一概に、つらいと思うことばかりをやっていても、ありたい姿とGAPがある状態にずっといることになり、それでそのGAPを埋めないと、仕事をしたことにはならないと思います。
仕事とは本来誰かの役に立つこと。つらさが仕事で発生するのであれば、自分の中のありたい姿と現状にGAPが起きていてそこから脱しようとしている証。つらいと思っているのはすでに自分の中でありたい姿が確立されていることになります。そこにトライすることには価値があると思います。
それを意識してやっている限り、食いっぱぐれることはないと思うのです。だって人の役に立とうと思っている時点で、非常に価値があるとは思いませんか。
ですが誰かの役に立とうと思っていても、自分よがりで、ありがた迷惑になるケースも出てきてしまうと思います。それを防ぐのがコミュニケーションだと思っています。
ぼくはこれがあなたにとってこれがいいと思っています。迷惑ではありませんか、と、まあこんなに直接的でないにせよ、相手のことを気遣ってギブをしていくことが、食いっぱぐれることもなく、自分の意思を抑えることなく、より良い人生が送れるのではと思います。
まとめ
最初、そもそも人間は嫌なものから逃げる習性があると話しました。
それなのに仕事が嫌な時逃げないのはなぜかという話で、それは今までの経験からさらに悪い状況になることから避けようとする考えから、行動していると話しました。
ただ自分の今の思いを封印し続けるのは精神衛生上良くないので、まず仕事への考えを変え、仕事とは相手の役に立つことを、自分の中のあるべき姿に向かってつらさの感情をうまく利用しながら完遂することと話しました。
それが役立っているかを、相手にコミュニケーションを取りながら確認し続けていけば、食いっぱぐれることもなく、自分の今の思いも大切に生きていけるのではないかという話でした。
今日も読んでいただき、ありがとうございました。
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