写真を販売する理由

ぼくが写真を販売する理由は2つある。

1つ目は、会社員という立場から一度距離を置いた時に、自分にどれだけ稼げる力があるかを、見定めたいからだ。

そして2つ目だが、そもそも自分の写真がうまいかどうか、正直よくわからない。

たぶん写真がうまいというのは、その目的にどれだけ合致しているかということなのだと思う。

何か商品を売りたいとなった時に、その商品写真を撮影したとする。ただそれが暗い画面上にその商品が写っているのと、ちゃんと明るい場所で撮影した写真とでは、売るという目的に合致しているのは後者だろう。

このように以下にその撮影意図に合致しているからが、写真の良し悪しを決めているのだと思う。

そういった意味で自分の写真がうまいかどうかはよくわからないし、それが売れるかどうかもわからないのだが、ぼく的にはこれらの写真が”良い”と思って販売している。どれ1つとっても、出して恥ずかしいものはない。

それはなぜなら自分が満足した写真だからだと思う。自分が”良い”と思って撮った写真だから、後悔がないのだと思う。

ぼくは常々、この世界の正義が一義的でありすぎると思っていた。既に正義があり、それの根拠も筋道立って作られている。逆にそれ以外は悪と思える節があると思う。

こうしていくと、非常に息苦しい世の中になってくる。本当は自分ではこうしたいのだけれども、世間体を考えると自由に動けない。もちろんある程度のルールは必要だと思うし、大事だと思う。しかしあまりにも他者を拒絶していくと、変化もないと思うのだ。

そういった意味で写真はまだ自由な分野なのではないだろうか。確かに撮影意図による写真の良し悪しはあるが、基本何を撮っても自由である。この「何をやってもいい」というのが、写真の素晴らしいところだと思う。

これに似たものとして絵を描くことも挙げられる。あちらも自分の自由な意図で描け、表現度合いが高い。しかしぼくのイメージだがなんとなく絵画は技量が必要で、筆などの用意すべき画材も多い。

その点写真は、今や携帯電話でも簡単に撮れるようになった時代だから、簡単に撮影することが可能だ。もちろんモラルを考慮して、TPOをわきまえる撮影姿勢は必要だが、周りに迷惑をかけなければ何をやっても自由である。この自由で手軽加減が、ぼくは好きなのである。

そして自分が”良い”と思ったものを自由に表現し、それ(自由に表現すること自体を肯定すること)が、これから非常に重要になってくると思う。そうしたらその人が良いと思ったものは、全て良くなってしまうのではないかという指摘があるかもしれない。しかし、そういった”許容”の考えが、今の世の中には必要で、Aさんが作ったものがなんとなく自分は好きという感情が生まれ、それへの対価としてお金を支払い、そのお金をもってAさんが生きていける、そしてまた作品を生み出していけるというある種循環のような流れが必要なのではと思っている。

それの試みとして、ぼくが良いと思った作品を、売ってみることにした。会社に申請をして、承諾ももらえた。

これらがぼくが”良い”と思うものたちだ。写真を見ても伝わらないかもしれないから、文章や音声でも、ぼくの考え方を発信している。

たぶん、文章も音声も写真も、ぼくという存在の、表現方法たちなのだと思う。

販売している写真たち→

以上