一体全体、ぼくたちはなにを信じて生きていけばいいのか
これは最近のぼくの悩みの1つである。
なにを正しいとして、生きていけばいいんだろうか。
今までは勉強をしていい大学に入って、いい会社に入って、子どもをもうけて、あとは会社で真面目に働くということが、ぼくは正しいことだと信じて生きてきた。(以下、この人生の歩み方を「ケース1」と名付ける)
今、ぼくは有難いことにこれら全てをクリアした状態にいる。しかし、これまでが順風満帆だったわけではない。メンタルを崩した時もあったし、辛い時期も多かった。諸手を上げて、順調です!なんて、口が裂けても言いたくない。
そしてもう一つ考えていることが、このままの人生で良いのか、とよく考えることだ。このまま真面目に働くだけでいいのか。そこが悩みどころの1つであった。
本当に、これから何を信じて生きていけばいいのだろう。上記のケース1の人生は、なんとなく周りからそういう人生の方が食いっぱぐれなくていいよ、と教えてもらって根付かれた考え方な気がする。
ケース1の人生は確かに安定的である。そして幸福度もある。しかしこのステージを経験してしまうと、違う人生も歩んでみたくなる。人間とは実に勝手な生き物だ。
そうしたらどういう人生を歩みたいのだろう。ぼくの中ではどこかの湖畔でキャンプをしながら生きているような風景が頭に思い浮かぶが、絶対にそれをしたいかと言われればそこまでではない。
もっと個人が常識にとらわれることなく、もっと自分らしい人生を歩んで行ってほしいという考えはあるが、それで何か行動に起こそうという気概までは持っていない。
やった方がいいことはいくらでも思いつく。
資格や英語の勉強をした方がいいだろうし、仕事のパフォーマンスに直結するスキルを身につけるのもいい。本をたくさん読んだり、いろいろな人と話して見聞を広めるのもいい。家族のために何かをするのもいい。近所の人に親切にするのもいい。
これらは全て合理的に「良い」ことが説明できるものばかりだ。スキルを向上した方が食いっぱぐれない。知識を蓄えた方がいつか役に立つかもしれない。誰かに親切にすれば恩返しがあるかもしれない。
ただ、逆に合理的に「別に意味がない」とも捉えられるから不思議である。別にスキル向上したからといって必ずそれが報われるとは限らない。知識についても同様。誰かに親切にしたらその優しさに逆につけ込まれるかもしれない。
そう思うと、コインの裏表のような形で、やった方がいいということも、裏を返せば別にやらなくてもいいとも捉えられる。そう、やったほうがいいことは、別にやらなくてもいいのだ。
だがぼくの中には警鐘を鳴らし続けるものたちがいる。
仕事は絶対に辞めちゃダメだ。家族は守らないといけない。周りには優しくしなければならない。他にも色々あるが、そうは言っても絶対にやらなくちゃいけないよね、という絶対真理がぼくの中にはいくつもある。それらは「別にやらなくてもいいよね〜」というわけにはいかず、恐怖心という武器でぼくを攻撃してくる。絶対にそれだけはやっちゃダメだと。
もうこれは本能的なものだから、一生治らないだろう。そういう絶対真理は置いておいて、自分の中でできる限りだけの「まっ、いいか」を探して行った方が現実的である。
・今日は疲れたからこの辺にしておくか。
・今日はぐっすり寝よう
・少しくらい遊んでも罰は当たるまい。
そういう少しの”許し”を自分に与える、つまり甘えさせるのは重要なことなんだと思う。
漫画の島耕作で、銀座のバーのママが、真面目な人は根詰めすぎてすぐ潰れてしまうという。逆に出世する人は適度に手を抜く人なんだという。
そういうことなんだと思う。人間だから生存に関わる部分は本能的に抗うことはできない。抗うことができる部分で、自分を遊ばせ、適度にリラックスさせることが、生きるうえでの秘訣なような気がする。
以上
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