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優劣とはなにか

みなさん、こんにちは。

今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。

今日の話はタイトルにもあるとおり、「優劣」についての話にしようと思います。

いろいろと、優劣をつけがちな世の中ですが、それはそれで生きづらいなぁと思う今日この頃です。どうして優劣をつけなければいけないかなど、話を進めていきたいと思います。

数字で優劣はつけやすい

社会に出て会社に入ると、何か目標が与えられるのは普通のことだと思います。

  • いくらの売り上げを達成する
  • 何個のものを販売する
  • いくつかの企画を通す

定量的に目標を決め、それを達成するためのマイルストーンを定め、スケジュールを決めて進めていきます。

数字というのはとてもわかりやすいものです。

1より2の方が大きいですし、2より10の方が大きい。子どもでも知っています。

そして10を目標としていたのに、結果が9であればそれは未達ということになるのは明らかです。とてもわかりやすい世界ですよね。

そしてその数字を達成できない人はどうなるか。普通は評価が下がります。その目標を与えられたのに、それを達成できないと、その人の評価は下がり、給与に影響がでます。

逆に、目標を達成した人には給与が十分に与えられます。結果を出せた人=○、結果を出せなかった人=×の構図がここで出来上がっているのです。

これもとてもわかりやすいし、納得性の高いものですよね。頑張った人がそれに見合った報酬を受け取るのは当然だろうと。

でもぼくはその正当性は理解しつつも、喉に魚の骨が引っかかったように、違和感を感じるのです。それは何かを探っていきたいと思います。

レベルの合っていない環境はお互いに不幸である

ぼくは運動神経が良くなく、足も遅かったです。クラスでビリから2番目とかそのくらいの遅さでした。

また、小学校とか中学校で、サッカーとかバレーボールを体育の時間でやるのですが、それもとても嫌でした。みんなの足を引っ張るのが目に見えていたからです。

サッカーでは例えパスがきてもうまく取れなかったり、すぐ相手にボールを取られたりして、味方チームの足を引っ張っていました。

バレーではサーブが相手陣地に入らずに、チームの足を引っ張りました。

これじゃダメだと思って、一人で夜練習したりしましたが、改善はなされませんでした。

自分が失敗して、チームに迷惑をかけている時に感じるあのしら〜〜とした雰囲気が嫌でした。絶対チームのみんなはぼくのこと、足手まといだと思っている。ごめんなさい・・・と思いながら体育の授業をやっていました。

剣道の授業もあったのですが、ぼくは剣道部だったのでその時は心に余裕がありました。さすがに剣道を部活でやっていたので、クラスの他の人たちよりも上手で強かったからです。しかし安心感はありましたが、やっていて楽しいと感じることはありませんでした。

この経験をして、大人になってからわかったことですが、レベルの合っていない環境は苦痛であるということです。

自分が不得意なサッカーやバレーではチームの足を引っ張り、自分がそもそも辛いし、上手な子はイライラするだろうしつまらないということ。

逆に自分が得意な剣道では、相手と自分のレベルが合っておらず、楽しむことが難しいということです。

合わない環境からは身を引く。その時自分はダメなやつと思う必要は一切ない

このことは、最初の話の、会社に入って数値目標を達成できない話に通ずることかと思います。

いくら頑張って工夫しても、その仕事のノルマを達成できない、達成しようというやる気にならない、つまらないというものは、やっぱり向いてない仕事なんだと思うのです。

合わない仕事、やりたくない仕事をしていても、自分が辛いだけですし、結果が出にくいので所属しているチームへの恩恵度合いも低いです。もし本気で目標を達成しようとしているメンバーがいたら、それこそその人たちの足を引っ張ることになります。そう、集団スポーツで、上手い子の足を引っ張るようにです。

そんな不得意でやっていて楽しくないことからは、手を引いた方がいいと、ぼくは思います。

またその時は自分はダメなやつなんだと悲観する必要は一切ありません

仮にあるサバンナで、シマウマとライオンは仲良く暮らせると思いますか。

出来ないですよね。シマウマは草食動物で、ライオンは肉食動物。というか、ライオンにとってシマウマは自分にとっての餌。そんな関係の中仲良く暮らすことは不可能です。二つの属性や関係が違いすぎるのです。

ですがそれでシマウマがライオンより劣っていると思いますか。ぼくは思いません。ただそれは動物としての関係性が違うだけで、どっちが優れている、どっちが劣っていると判別できないと思います。

小学校でのサッカー、バレーでもそうです。別に球技が下手だからといって、その人自体が劣っていることにはなりません。たまたま球技が上手でないだけです。

会社での数値目標も同じです。その仕事がうまくできないだけで、その人自体が劣っているということは絶対にありません。たまたまその仕事がその人に合っていないだけなのです。

こんなことを書くと、それは甘えだとか、もっと頑張ればできるはずだという話も一方ではあるかと思います。

もちろんすぐに諦めるのはもったいないと思います。でも石の上にも三年と言いますが、何年かやっても芽が出なかったら、それは方向性を見直した方が賢明だと思うのです。

諦めるな、できるはずだ、できないのはその人の努力が足りないからだというのは、やり始めて数年は確かに、当てはまる内容なのかもしれません。しかしこれに固執することはありません。この方向性では芽が出ないなと思ったら、方向性を転換した方が冷静に考えて賢明なのは明らかだと思います。

そういう頑張れとか、甘えるなというのは、相手のことを考えていないのではと思います。その人がある一定のレベルに達してくれないと、今度は自分の方が困ってしまう、それは嫌だから諦めてしまうのを認めることができない。そういった心の動きな気がします。

まとめ

ここまでの話をまとめたいと思います。

まず始めに数値で目標を立てると、達成したか未達なのかがわかりやすいという話をしました。そして社会に出るとそのわかりやすい指標で優劣を決め評価するやり方になっているという話もしました。

しかし、その優劣というのはその決まった尺度で推し測った時のみの結果であり、その人自体の存在を評価するものではないことも話しました。

自分に合わない尺度で頑張るのも意味はあると思うが、そこに固執することはなく、嫌だなと思ったら、別に自分のことを卑下せず、違う路線に乗り換えるのも全然アリなことであるという話でした。

その際、甘えるなとか努力が足りないとか思う必要はなく、自分の好きなようにやれば良いという話でした。

今日もお読みいただき、ありがとうございました。

今回は以上になります。

2022-06-18|
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