(128) 自分の役割について

最近よく考えるテーマが、自分の役割についてである。

会社の中での役割、求められていること、
また、家庭内で、夫として、父親として求められていると思うこと、
また、自分の父、母、兄妹、親戚から求められていると思うこと、
色々な役割がぼくに期待されていると感じる。

それらは大事なことだが、たぶん自分自身というより、「そうあるべき」と、ぼくが今までの経験から感じることであって、ぼく自身がこうしたいとかそういった能動的なものではない気がする。

誰かから与えてもらってそれにぼくが応えている、そんな感じがする。

それらも大事なことだし、ちゃんと受け取ってやりたいと思っていることだが、自分自身の中から、「これをしたい」という役割を創造し、それに基づき、人生を送る方が有意義だと感じるので、今回はそのことについて考えていきたい。

そもそもぼくはなにをしたいのか

人間の欲は無限大だから、何も目標設定をしないと、生きるためにやれることは無尽蔵にやろうとしてしまう。

それがそんなに生存確率を高めるものでないにせよ、0.00001%でも確率を上がられるのなら着手してしまう。そんなに効果が出ないのにだ。

だから「自分はこうしたい」という目標を掲げ、それを上限とするような動きを取った方が、精神衛生上よい。

ぼくの場合はそれはなんなのだろうか。ぼくはこの世の中が、もっと自分の好きで得意なことでみんな働き、生き生きと暮らす世の中になったらいいなと考えている。

そういう世の中になるのであれば、なにか自分も動きたいなと思っている。

一方、ぼくは空いた時間で、自分の好きなことをしている。

写真を撮ったり、このようにブログを書いたり、ポッドキャストを放送したり、Yahoo!知恵袋に回答したり、散歩をしたりする。なぜこれらをやっているかと聞かれると楽しいからだ。

写真が楽しいのは、自分の撮りたいものがすぐ撮れて、具現化するのが早いからだ。なかなか自分のやりたいようにできないというフラストレーションをどこかに抱えていて、それが容易にできる写真に惹かれているのではないかというのが、今の推測である。

ブログは、やはりどこかで「こんなこと言っていいのかな」と、人に話すのを憚れるような内容を、ブログであれば気軽に投稿できる。ポッドキャストも同じ要領だ。

Yahoo!知恵袋に答えるのは、自分と同じような悩みを抱えた人がいて、それに回答できるからだと思う。その質問者さんに自分を重ね合わせ、こんな回答が来たら嬉しいな、を自分が回答者として体現する。自分の悩み解決をそこに投影している気がして、悩みが解決するという解放のプロセスを擬似的に体験でき、しかも相手からも感謝されるということに、面白みを感じているのだと思う。

散歩も抑圧されている毎日から解放され、自分の行きたいところに行けることが快感なのだと思う。

こう見ていくと、どうやらぼくは抑圧されたものを、解放できるものたちに愛着が出るようだと推測ができる。

たぶんぼくは人より、「こうしなきゃいけない」「ああしなきゃいけない」と固定概念が強い傾向にあり、それをもう治せないのだと思う。子どもの頃に出来上がった価値観を、大人になってから変えるのは、相当ドラスティックな出来事がないと変えられない。

「しなきゃいけない」思考を少しでも緩めたいなとは思いつつ、そんな簡単に自分の性格が変わらないのもなんとなく悟ってきている。そこを無理に変えるのではなく、固定概念が強くそこに縛られがちなのであれば、緩める手段を講じておこうというわけである。自由に自分を表現できる、写真、発信系(ブログ/ポッドキャスト)、知恵袋、散歩で凝り固まったものを緩めることを、本能的にしていたというわけである。

もっと世の中、好きなことをしてもらいたい

このように、自分の思考のクセを理解し、それに応じて対処する手段を講じて、自分の状態を安定させようとしている。これはこれでいいのだが、これだけやっても自分が安定するだけで、特段人の役には立てていないような気がする。

やはりぼくが周りの人を拝見していて思うのが、「しなきゃいけない」に囚われすぎで、なにか大事なものを見失っている気がするのだ。ぼくは生まれてきた理由を、「楽しむために生まれてきた」と認識しているのだが、つらい顔をして一生を過ごすので、その人生でよいのかしらと思ってしまう。

やはり自分らしく生きて、楽しく人生を過ごすのが、良い人生なのではと勝手に考えている。

ではなぜつらいのかと言われると、それはおそらく自分の好きなことができていないからだと思う。

自分の好きなことをする前に、他者から期待される「しなきゃいけないこと」を優先してしまい、自分の時間が確保できなくなっているのではと考える。もちろん他者からの期待に応えることも重要だ。人間は一人では生きていけない。必ず他者の助けが必要になってくる。その時には他者との相互協力関係が必要だから、他者の期待に応えるのは必然になってくる。

しかし人間の欲望は無限である。あの時応えてくれたから今回も応えてくれるだろう、しかももっと要求しても応えてくれると、それに応対してばかりだと、自分が疲弊してしまう。

欲望とは底なし沼のようなもので、そこに足を入れると、ズブズブと沈んでいってしまう。そこに底はないのだ。

他人の要求を断るのは怖い。それは本能だからしょうがない。でもそれより大事なこと、つまり自分の好きなことをして楽しい人生にするということに、挑戦していかなければいけないのだと思う。

そのためにはなにをすればいいのかというと、それが好きなことをして楽しい思い出を作ることなのだと思う。人によって好きなことは違ってくる。ぼくのように、思考のかたまりをほぐすことたちに、快感を覚える人もいれば、スポーツをしたり、なにかものを作るのに快感を覚える人もいるだろう。

それは10人いればおそらく10通りの理由があって、それはぼくにはわからず、本人にしかわからない。しかも本人であってもそれが言語化されておらず、なんとなく好きという状態の人が9割くらいだと思う。もしやる気があるのであれば、言語化してみると楽しいからおすすめである。

話は戻って自分の役割のことである。ぼくはもしかしたら「アナウンサー」なのかもしれないと思った。これはテレビに出てくるキャスターを表しているのではなく、「発信者」という意味合いである。そしてぼくが発信したいのは、「他者に期待されていることばかりするのではなく、自分の人生を豊かにするために、もっと好きなことをしよう」である。それを自分が好きなことをしていることを発信することで、自分自身をもって、この世に証明しているのだと思う。

そしてまたぼくは「解放者」なのかもしれない。英語でいうと、リベレーター。反逆がリベリオンだから、そういった意味もあるのかもしれない。なにかぎゅうっと上から抑圧されてきたものからの解放と反逆。それがぼくの根源にあるのかもしれない。

以上

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