「役」という漢字は兵役に関する漢字らしい。
昔兵役は民の義務だった。絶対に従事しなければいけない仕事だった。そこから派生して、一人一人に割り当てられて、しなければいけない仕事、という意味になったらしい。
ということは役割というのは、絶対にやらなければいけない、個人に振り当てられる仕事ということなんだろう。その職種に与えられる任務、責任。親としての責任、仕事。
この世の中には仕事がたくさんあって、それが人に割り振られている感じがする。
しかしぼくは思うのだが、「役割」が先にあって、「個人」が後にくるのは違うと思う。
例えばやらなければいけない仕事があって、それを最優先するあまり、それに従事している人が体を壊してしまうとか、そういったことは決してあってはいけないと思うのだ。
確かに仕事や役割は重要である。それで幸せや満足感を得ている人がいるのであれば、それは有用なものだと感じる。
しかしそのために、ヒィヒィと言いながら、きつくて辛い思いをしながら、死にそうな顔をしてその任務に従事する人が出現してしまうのは、ぼくは違うと思う。
その従事している人が生き生きとした顔をして、その仕事に従事しているのなら、なんの問題はない。
しかし、辛い顔をしてその仕事を完遂したからといって、そしてそれで喜ぶ人が出てきたとしても、いわゆるWin-Winの状態では、決してない。
自分がしていて楽しい仕事であり、かつ周りの人も豊かにしている。そういうWin-Winを目指していかなければいけない。相手が幸福でも自分が不幸では決してだめなのだ。
(といいつつ、自分も相手や他人を優先し、自分を追い詰めてしまうことがままあるので、注意が必要だ)
言いたかったことは、まず個人を優先しようと。そしてその個人が幸せなことを前提に、役割に従事しようということだったと思う。
子どもの頃、サッカーをしようとなって、何人かで集まったとする。そのときポジションはどういうふうに決まっていっただろうか。おそらく体が大きい人がキーパーになって、足が早い人が先陣を切って相手ゴールに挑んでいく形になったのではないだろうか。
これは役割、つまりキーパーやフォワードという”役割”が先にあったわけではない。自然発生的に、得意な人がそのチームの目的を果たすために一番有効な行動をとっただけの結果である。
そう、役割が先にあったわけではないのだ。そうではなくて、その目的と、その個性を鑑みた時の最適解が役割になっていくのだ。
だからなぜ現代のように役割が先にあるかというと、最適解が見つかってしまっているからだ。この事業をするのだったら、こういう役割の人を何人置けば効率よく進むというのがわかっているのだ。わかっているからあとはそこに一番適した人材を見つけてきて、そこに配置すればいい。
それはよくわかるのだが、それってやっていて楽しいのだろうか。その事業をやっている側からすれば、人材はただの駒のように見えるだろう。そこに人の温度感や温もりはないだろう。
ぼくは人の温かみが好きだから、そういうマネーゲームみたいなものは苦手だし、好きではない。ぼくはもっと人とのコミュニケーションで温かい環境にいたい。
そのためにはマネーゲームのように、役割と効率を重視する社会ではなく、あの子どものころ遊んだ時のように、目的に対して得意な人が自然にその役割を担っていくような社会にしていきたい。
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