(32) 許すとはなにか

許すとはどういうことだろうか。

お得意の漢字辞典で調べる。

許すの右側は「午」で、「杵(きね)」にも「午」がつく。

杵というのは、お餅をつく時のあの、杵(きね)と臼(うす)だ。

高速で餅つきをする動画を見たことはないだろうか。あれほど高速である必要はないとは思うが、ああいう餅つきでは、基本的に二人で餅をつくだろう。

一人は杵(ハンマーみたいなもの)を持って、もう一人は餅をこねる役だ。

そして「ハイッ!ハイッ!」といって、二人で調子を合わせながら餅をついていく。

少しでもテンポが狂えば、下手すれば杵でもう一人の手を潰してしまうわけで、この阿吽の呼吸は非常に大事なものになってくるだろう。

これが「午」という文字にはあるらしくて、交差するというイメージから来ている。

他者同士が相手の様子を伺いながら動作をし合う。これが「午」のイメージだ。

それでは許すとは?

許すとは、その「午」に「言」がつく。つまり話、言語で持って、相手の様子を伺い、コミュニケーションを取ることにほかならない。

そう考えてみると、当然の話だが、許すためには相手がいないと成立しない。

誰かのことが許せない場合、そもそもその相手がいないと許すこともできない。だから許すためには自分ではない他者が必要なのだ。

しかし自分を許せないというときもある。いつもグダグダしている自分が許せない時、それは自分というより、「グダグダしている自分」という相手を許せていないのではないだろうか。その時、自分は自分でも、もう一人の自堕落な自分というふうに、思考している自分とは切り離していることが多い。

だから結局は、許すためには他者が必要なのだ。そして許すために必要なことは「捨てる」ということだと思う。

捨てるとはなにか

「捨」には、緩めるというイメージがある。「舎」というのは、「駅舎」、「兵舎」などにも使われるが、体を休めるというコアイメージがあるらしい。

手を緩めて、ぎゅっと握りしめた手をそっと広げてみる。そうするとそこで握りしめていたなにかはこぼれ落ちてしまうかもしれない。でもそれが重要なのだ。

人間には手は二本しかない。普通に考えれば2つのものしか手に持てない。では3つ目を持ちたいのならばどうするか。それには1つを捨てるしかない。

もちろん、二つの手のうちのどちらかに乗せるという手もあるが、そうすると片方の手は重くなるし、下手をすれば下にあるものを潰してしまうかもしれない。

だから無理をしないのであれば、一つ欲しいのであれば、今ある何かを捨てなければいけないのだ。それなのに何も捨てずに何かを得ようとするからきつくなるのだ。

誰かを許すときも同じである。自分のポリシーや考えを譲らなければ、永遠に相手を受け入れることはできない。受け入れるためには硬くなっていてはいけない。柔らかくなければいけない。そして手綱を緩めて相手を受け入れる体勢を整えなければいけない。

だから許すというのは相手が必要だということ。そして誰かを許すためには硬くならずに柔らかく受け止める。あきらめて何かを捨てて余裕を持つ。

2022-08-27|
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