(51) プロと先生の違いは何か

プロとはプロフェッショナルのことである。そしてプロフェッショナルとは、プロフェサーつまり教授からきているのだと思っている。

そして先生とは、言い方は悪いのかもしれないが、教授よりは、簡単な内容を教えるクラスにいる気がする。大学での先生は教授で、高校までだと先生になる感じだ。

図示するとこうなる。

先生と教授の違い。教育フェーズによる名前の遷移。

先生とは何か

先生と教授については、教育フェーズによる名前の遷移だとすれば、まず先生とはなんなのだろうか。

先生とは「先に生きている」と書く。では、自分より年上であれば全員先生なのだろうか。

いやそうではない。自分より年下でも、〜〜教室とかに行けば、先生が自分より年下である場合もあるだろう。また、自分の子どもの学校の先生など、自分より年下であるケースも出てくるであろう。しかしそれでは先生ではないかと言われれば違う。明らかに先生であると認識している。

「先に生きている」といっても、それは単純に生きてきた年数ではなく、ある事柄に対し、自分より多くの時間をかけ修練している人物を先生と呼ぶのだと思う。

例えば学校の先生であれば、何かを教えるということに対し、教育に関する学習を長年にわたって行い、スキルと経験を培ったからこそ先生と呼ばれるのである。

書道の先生もある事柄(ここでは書道)について、長年鍛錬を積んで普通の人より書道に長けているからこそ、先生と呼ばれるのである。

先生とは、自分よりある事柄について長年鍛錬し、自分よりスキルが高い人物のことを指す。

プロとは何か

ではプロとは何なのだろうか。プロフェサーで、教授かと言われれば、プロのアナウンサーとはいうが、別にそれに”教授”感があるかと言われればそんなことはない。

プロのサッカー選手とはいうが、それにも”教授”感はない。ではプロとは一体何なのか。

こういう時は帰納法を使って、今”プロ”と呼ばれている職業を書き連ねていくとよい。

プロの・・・

  • 野球選手
  • ミュージシャン
  • カメラマン

などとはいう。

これらはどういうことを行って、お金を得ているのが何となく想像がつく。

野球選手は試合に出て野球をし、それを観客が見て楽しみお金を払うから、自分にも給料が入ってくる。

ミュージシャンもCDを出してそれを買ってくれる人がいるからこそ、生計を立てることができる。

カメラマンもクライアントの写真をちゃんと撮り、それにお金が支払われるからこそ、生計を立てることができる。

このように、その職業について、あらかた何をするのかが見えており、それによって生計を立てることができている、つまり食っていけている人がプロなのだと思う。

プロとは、ある職業で、食っていけている人のことを指す。

そしてその職業の内容が想像できる。

この、職業の内容が想像できるというのが、案外大事である。

例えば、プロのサラリーマンというのは普通だろうか。普通ではないだろう。ではなぜ普通ではないのか。先ほどの定義の通り、ある職業で食っていけている人がプロである。であれば、サラリーマンの人は食っていけているから、何かしらの職業をやっているのだろう。ではサラリーマンの仕事内容とは何か。

それは会社の指示に従い、会社員と協調性を保ち、ある程度は独自性を発揮しながら、会社の利益を増やす仕事だろう。

だから別にこういうふうに定義できるから、プロのサラリーマンといっても変ではない。変な感じがするのは、サラリーマンが何をやっているかがフワッとしすぎているからだろう。

食っていけるとは何か

ではこの食っていける状態とはどうすればなれるのだろうか。

大事なことはその仕事によって発揮される価値を、欲しがっている人がいて、それが提供でき、その見返りを得られている状態なのだと思う。

食っていけている状態

なのでまずファーストステップは、自分が行うこと(仕事)で、誰にどういう価値を提供できているかを考える必要がある。そしてその次に、その対価を支払う仕組みを構築してあげる必要がある。

この、セカンドステップの対価を支払う仕組みも構築するのが、食っていく条件の上で、案外忘れられがちな要素な気がする。どうしても好意でやってあげて見返りを求めないケースも、出てしまうと思うのだ。

しかしこの活動を持続させるためにも自分の意思で、対価を得る仕組みを作っておかないといけない。そうしないと価値が、その価値を欲しがっている人に提供できても、その見返りが自分ではなくどこか違う方面に流れてしまう。対価のベクトルを自分にむけ、その得られた対価を資本に、また違う価値を提供していかないといけない。

例えば写真やカメラが好きな人がいたとしよう。その人が行えることは写真をカメラで撮ることである。ではその仕事でどういう価値が提供できるのか。

これはどういう写真を撮るのかによる。というかそもそも写真とは何なのだろうか。

写真とは何か

写真とはカメラを用いて撮影された、静止画のことをさす。ではなぜ人は写真を撮るのか。

まず記録するという理由である。その情景を誰かに見せるという目的として、”保存”の意味が強く残される。

保存食もなぜ保存するのかというと、その価値を期間が空いても発揮できるために保存するのである。こういった保存の意図で写真は撮られる。

では保存までする元々の価値は何なのだろうか。

子どもの写真を撮るのは、未来の自分が見返した時に、子どもたちの昔の姿を見たいからだ。

観光地に行って写真を撮るのは、こういうところに行ったということを記録しておきたいからだ。

こう考えていくと、写真とはまるで保存食のように、その出来事や情景をまるっとパックして、それを長期保存し、誰かに見せることを目的としている気がする。

そして写真を撮るときは、誰に見せるかが決まっている場合が多いと思う。子どもの写真を撮るのは、未来の自分が見返すため。観光地の写真を撮るのも未来の自分が見返すため。

逆に未来の自分以外のために撮る写真もあるだろう。そこに写真の価値があるのだと思う。つまりお客さんがそのお客さんの未来のために写真を撮りたいが、どうしてもそれができない。だからカメラマンにそれを代行してもらうのだ。

自分で撮れない理由はいくつもあると思う。カメラを使うのが苦手で写真が撮れない高齢者であれば、自分で撮れないから、誰かに撮ってもらいたい。そしてその写真を自分のために残しておきたい。

昔はカメラ自体が高価であったから、写真という保存手法を、カメラマンにお願いしたかったであろう。

写真とは、残したい何かを保存すること。

カメラマンとは、自分では残せない写真を代行してもらう人。

だからまず仕事の内容が想定できて、それでどういう価値が発揮できるかを考えるときにすでに、誰に価値があるのかというターゲットを先に考えておいた方が良い気がする。

仕事内容を考える→誰に届けるかを考える→その人にどういう価値があるかを考える

写真を撮ることができる、では誰にそれを届けたいのか。高齢の方なのか、ご家族なのか、法人相手なのか。届け先を決めるのがひどく重要な気がする。

まとめ

最後にまとめようと思う。

先生とは、自分よりスキルがある人。

プロとはあることで食っていけている人。

食っていくためには、誰のどんな問題を解決したいのか。その問題を解決するのに価値がある、その価値を提供するのが仕事だと思う。

概して、自分に何ができ、それでどういう価値が提供できるから、こういう人におすすめだというベクトルで考えがちであった。

しかし本質は逆で、誰のどういう悩みを解決したいのか、そのためにはどういう価値がある仕事をする必要なのかという方向性の方が、仕事とかプロとか、食っていくとか考える上で、考えやすい気がする。

以上。

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