(60) 良いと悪いの違いはなにか
この教育方針は良い、正しい。間違っていない。
この営業戦略は良い、誤っていない、正しい。
この人が言っていることは正しい、間違っていない、良いことを言っている。
ぼくらは知らず知らずのうちに、物事に良い・悪いのレッテルを貼り、良いことに近づき、悪いことは遠ざけようとしている。
そして、良いことに近づくと、嬉しい感情が芽生え、逆に悪いことに近づくとストレスを感じるようにしている。そうして、良いと悪いという価値観を元に行動が紐づけられている。
こうすると何が困るかというと、日々、1秒1秒、良いものには近づき、悪いものからは遠ざけようとする。
感情に縛られ、嬉しさやストレスに振り回されることになる。
これがどういうことか、野球を例示して考えたい。
野球でいうストライクゾーン
ぼくは野球に門外漢で、打ったら反時計回りに走ることくらいしか知っておらず、何人でやるかも把握していない。
そんなぼくだが、ピッチャーがバッターに向かってボールを投げることは知っている。そして大体真ん中ら辺にボールを投げると、「ストライク」となり、それを3回してしまうと、バッターは交代するルールということも知っている。
ピッチャーとしては、どれだけストライクに球を投げ、3振を取るかで、その価値が決まってくるのであろう(もちろん打たせて取るタイプのピッチャーもいると思うが)。
この時ボールをバッターの真ん中に投げるとストライクとなるという”ルール”が確率されているため、良いボールと、悪いボールというのが明確に決まる。
つまり良いボールとは、真ん中に投げられてストライクが取れる球。逆に悪いボールとは、真ん中から外れ、ストライクが取れない球のことになる。(ここでは、ボール球を投げて、わざとファールを取るとか、そういう話は除く)
ストライクを多くとってアウトをとって、相手チームに点数を入れさせないことが良いピッチャーと定義すると、ストライクを多く取れるピッチャーが良いピッチャーとなる。であればストライクゾーンにちゃんとボールを投げれるピッチャーも良いピッチャーとなる。
ここで重要な点は、ルールが定義されているから、物事に良い悪いという概念が生まれているということだ。
もしボールを真ん中に投げてはいけないというルールにしたらどうなるだろか。ボールをできるだけバッターにとって打ちづらいところに投げた方が価値があるとするルールにしたらどうなるであろうか。
そうなると、ゲームは成立しないという点も出てくるかもしれないが、それは一旦置いておいて、仮の話として、そうなった場合、別にボールを真ん中に投げられることは別に良い点ではなくなり、逆に悪い点となってしまう。
制球力がなく、どこにボールが飛んでいくかわからない方が、良い投手となってしまう。
こう考えていくと、良いと悪いというのはどういう定義にするかで180度変わってくることがわかる。
別にボールを真ん中に投げられることが”絶対的”に良いというわけではない。良い悪いなんて、その時どう決めるかで変わってくる、無常なものだ。
ぼくらは価値観を絶対的にしすぎなのではないだろうか。これはこうした方が絶対良い、こうすべきだという価値観が強すぎて、他者を排除してしまってはいないだろうか。
別にAが絶対的に正しいわけではない。かといって、Bが正しいわけでもない。
Aでも良いし、Bでも良い。Cでも良いし、D でも良い。
確か、斉藤洋さんの「ルドルフとイッパイアッテナ」で出てきたセリフだったと思うが、こういうセリフがあった。
「人は人。ねずみはねずみさ。」
そう、別にその時、その時代で良い悪いなんて定義はガラリと変わる。別にどっちが良くて、どっちが悪いというわけではない。どっちが優れていて、どっちが劣っているわけではない。
昔、西洋では、遅れた未開の地にいる人々をかわいそうだと思い、私たちのような文明が発展した人類に、彼らも導かないといけないと思っていたらしい。
しかし、人類学者のレビ=ストロースが、「いやいや、それはあなたたちの傲慢で、未開の地にいる人が別に劣っているわけではない。彼らは彼ら独自の進化を遂げているだけだ」というような話をしたらしい。
それと似ているが、良い悪いは、その物事をどう受け取るかで変化するもので、絶対的に正しいものはこの世に存在しない。絶対的なものがないことこそ、絶対的な真実なのではないかと思う。
別にボールをバッターが届かないところに投げたっていい。
キャッチボールをしていて、別に相手が届かないところに投げたっていいではないか。(相手は嫌な顔をすると思うが)
ルールがあるから、良い悪いが生まれてくる。ルールを取り外したときそこにあるのは、ただの物事だけである。
別に自分の好きなようにやればいい。良い悪いを決めているのは、他の誰でもない、自分である。
別に何をやったっていい。その時不快感や快感が生まれるであろう。ただそれらはただの感情である。その快感や不快感に身を任せるのもよし。抗いたかったら抗ってもよし。何をやったっていいのである。絶対的に縛られる必要性は、そこにはない。
坂道にボールを置いたら、コロコロと転がる。
それはなぜか。それが自然だからである。坂道にボールをおいて、逆に登ってきたら恐怖である。
川も川上から川下へ流れてくる。それはなぜか。それが自然だからである。川が逆流してきたら恐怖である。
自然に身を任せ、抗わない。何かをしたかったらすればいいし、絶対的に縛られる必要は、そこにないのである。
以上
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