(62) 生きるとはなにか

生という字は、草の芽が土から出てくるイメージを捉えたものらしい。文字通り生命が生まれるわけだが、この生きるということはどうなのか、今回は考えたい。

まず結論から話すと、生きるということは、「息をすること」だと、ぼくは考えている。生きるというと、食べ物を食べたりすることも当てはまると思うが、まずは息をして、呼吸をしなければ始まらない。だからまず生きるを定義するとすれば、息をすることだと思うのだ。

そう思って、今、呼吸をしてみる。吸って、吐いて。

「呼吸」という字だけ見てしまえば、吐いて、吸ってだが、ぼくは吸って吐いての方が落ち着く。

深呼吸して、何も考えないことに集中すれば、心のモヤモヤや悩み、イライラは解消されていく。これはとても心地が良い。

人間は色々と考えすぎだと思うのだ。今を生きるという言葉もあるが、過去や未来に囚われ、心を消耗している気がする。これが何故起きるかというと、頭で考えすぎてしまっているからだ。

それではいっそのこと、なにも考えなければそういったしがらみからも解放されるという逆説論だ。これは効果がある。何も考えないのだから、そもそも悩みも生まれない。だからとても楽である。

生きるというと、なにか目標を持ったり、人生プランを考えたりと、そういったことを思いがちだと思う。しかし生きているだけ、息ができているだけで、もう十分幸せなのではないか。

家族が健康で幸せそうで、自分も健康である。これ以上の幸せはないのではないか。

だから、今、息をしているだけで、もう満足なのである。別に目標を持つことを否定している訳ではないが、目標を持つと、ストレスが生まれる。そのストレスは目標を達成するために、自分に当てるムチのようなものである。そのストレスから逃れたくて目標達成までのスピードが向上する。そして晴れて目標は達成される。

ぼくの経験論だが、仮に目標が達成できたからといって、ぼくの場合はそこで満たされることはなかった。次の目標が浮かんできてしまい、またその次の目標に対して走り出すのだ。そこに休息の時間はない。なんだか心が焦ってしまい、目標達成を”しなければならない”と考えてしまうのだ。

その時、目標達成した喜びよりも、目標を達成しなければならないという焦りのようなものが勝ってしまっている。目標は達成すれば次の目標が出てくるので、際限がないのだ。

もちろんそういう風に、色々な目標をゲームのように達成することが好きな人もいるだろう。しかし少なくともぼくはそういったゲームは好まない傾向にある。ぼくは自分のペースで周りの風景を見ながら散歩するのが好きな質(たち)である。

できない時はできないし、無理してやる必要もないし、おそらくやろうと思ってもできないだろう。もしよくわからなくなったら、呼吸して頭を空っぽにして、体が赴くままにやった方がいい。

結果は気にせず、空っぽの体がなにをするかに任せる。それが自然であり、生きるということだと思うのだ。

以上

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