(76) 幸せは相対的
読んで字のごとくなのだが、幸せは相対的だ。
例えばここにコップ1杯の水があったとしよう。
別に今特に喉が渇いていない時に飲んだとしても、それはただの水だ。
しかし砂漠で喉が渇いている時に飲む、コップ1杯の水はどうだろう。たとえぬるかったとしても、それは体が蘇るように、全身に行き届き、これほどうまいものはないと心から思うだろう。
また、たとえば宝くじが当たったとして豪勢な暮らしをし始めたとしよう。毎食豪華な食事が出てくる。最初のうちはその美味しい食事に舌鼓を打つだろうが、じきにその食事にも飽きてしまう。もっと美味しい食事を求めたり、違ったものを食べたくなってしまう。
このように、絶対にうまい水、絶対にうまい食事というのは存在せず、その状況に応じて変化する。絶対的なものというのは存在しないのだ。
だがこの世の中には絶対的と思われているものがいくつか存在する。例えばお金だ。お金を持っていれば、ずっと幸せに暮らしていけると思われている。
しかし本当にそうだろうか。お金だけ持っていても、家族や友人がいなければ人生は豊かにならないのではないだろうか。
ではお金もあって、家族や友人に恵まれれば、豊かな人生になるのか。確かに一時的には幸せな気持ちになれるだろう。しかし段々とそれだけでは物足りなくなってくる。
そうして人は旅行に行ったり、今まで体験したことのないことを体験したくなったり、簡単にいうと、暇つぶしをするようになる。人間は満たされると、途端に暇になってしまうのだ。
暇というのは苦痛である。何かしたいのだけれども、することがない、わからない。ただお金はあるので、すぐに死んでしまうということもない。生き続けなければいけないのに、生きることはクリアしてしまっているので、暇なのである。
暇を解消するためにはどうすればいいか。そのためにはまず欲を捨てることが必要である。大富豪の例だと少しイメージがしづらいから、最初の、料理の話にしよう。
お金が入って料理の質を上げたとしよう。最初は美味しいと思うが、何日もそれが続くと飽きてしまう。そして違う料理が食べたくなる。
ここでは違うものも食べたいという欲が出ている。
この欲というものを、よくよく考えなければならない。欲というのはなんなのだろうか。
欲とはなにか
欲とは人間が生き続けるために持つ感情である。栄養を補充するために、食欲が出るし、子孫を繁栄するために性欲も出る。体力を回復させるために睡眠欲が出る。周りと比べて自分が優れていることを示すために承認欲求や出世欲が出る、とこのようにだ。
この生き続けるというのがミソなのである。つまり明日も明後日も、1ヶ月後も1年後も10年後も50年後も生きていられるように発生するのが欲なのである。
であれば明日がないと仮定すると欲がほとんど出なくなるのが不思議な話である。例えば明日隕石が落ちてきてしまい、今日で人生が終わるとする。そうするとどういった行動を起こすだろうか。
仕事に行かなくなったりするかもしれないが、あくまでこれは仮定の話である。ぼくは明日もし仮にないとしたら、なんとなく自分のこと以外に、周りの人になにか役に立つことをしたいと思った。
このとき欲がなくなる魔法の呪文の言葉がある。それは「まっ、いっか」だ。まっ、今日で終わりなんだし、ま、いっかと思うと、全てのことがどうでもよくなる。明日とか1週間後のために色々と考えていたことが明日を考えなくて良くなると、途端にその悩みから解放される。そして今本当にしたいことにフォーカスできる。
変な話、明日でなくても良い。あと5分しか人生がないとしたら自分はどう動くか。ぼくはたぶん、今健康できちんと息ができることに感謝して時間を使うと思う。もう別にがむしゃらに頑張らなくても良い、そうなったとき自分は何をするのか、長期的スパンで生き続けることを考えなくて良くなった時、自分が何をするか。それが欲から離れた本当の自分の姿なのかもしれない。
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