(77) 相手が許せないときにどうするか
人間は地球上に70億人くらいいる。
ブルゾンちえみさんの、「35億」のギャグのおかげで、35×2=70億と計算できるようになったので、ブルゾンさんには感謝している。
さて、その70億人がそれぞれ別人なのである。一人として同じ人はいない。双子であろうと経過した時間が異なるので、同じではない。
こうなると70億パターンの人間がいるということだ。もし仮にその人と合うか合わないかで考えると、確率は2分の1。コインの裏表のようなものだ。合う人は35億、合わない人も35億いるということだ。
もちろんずっと合う、ずっと合わないというのも現実的には起こり得ないから、ケースバイケースということになる。35億で、それぞれ起こるケースはいろんなパターンがあるのだから、その数は途方もない数になってくる。
例えば5回の交渉ごとが会って、それが合意できる確率を調べてみよう。
1回でも合意できなかったら不成立なので、その確率は、
1/2*1/2*1/2*1/2*1/2=0.03125 つまり約3%である。ということは残りの97%はどこかで不合意になるということなのだ。
これはたった5回の話だが、人間同士がコミュニケーション取るのなんて1日に何十回、下手すれば何百回と交渉するだろう。そうなると全てに両者合意することなんて、確率的にほぼないに等しい。だが、世の中どうしてこうやってお互い平和に暮らせているのだろうか。ここまで合意できないのであれば、もっと争いが生じてしまいそうな気もする。
それを解決しているのが、「常識」と「メリット・デメリットの比較」であると思う。
常識とは何か
常識が大体の人間が同じ感覚を持っているからこそ、争いが生じずに済んでいる。
もし仮に菜食主義者と肉食主義者が同じ環境で住むとなったら、相当なストレスが両者にあるはずだ。それは食という人間の根本に根ざすところに問題が発生しているからに違いない。
このように常識やライフスタイルが似通ってないと、合意した生活は送りにくい。似たもの同士で生活するというのは大事なことなのだ。
メリット・デメリットの比較
似通った人間同士であれば、自分達の常識が通じるので、争いは生じにくい。だが、いつも似たもの同士でいれるとは限らない。
学生時代までは、仲の良い人間同士でつるむのが許される。しかし社会に出たらそうは行かない。成果を出すために時に気の合わない人とも、仕事をやっていかなければならない。
そうした時に、ライフスタイルや考え方、常識が合わないもの同士が一緒に仕事をすると、当然軋轢や衝突が起きる。そういった時は、争いは避けられないのだろうか。
しかし現実、気の合わないもの同士が仕事をしても、まさか殴り合いの喧嘩にはならないし、それはなぜだろうか。
もちろん殴り合いは良くないという共通の常識があるということはもちろんだが、それ以外に挙げられるのが利害の一致だろう。もし気が合わないだけで一緒に仕事をしないとなると、その仕事自体が回っていかないし、そうなると自分にデメリットが生じる。それと比べて多少我慢して気の合わない仲間ともうまくやることを天秤にかけると、少し我慢して一緒に仕事をした方が、自分に利があることがわかる。こうなると、争いを避け、気が合わなくても一緒に仕事をするようになる。
このように、気の合わないもの同士でも、気が合わないことによるデメリット以上にメリットが生じるのであれば、喧嘩せずに協力するのだ。
許すことについて
この、メリット・デメリットの考え方が、人間社会で非常に重要なものになってくる。
何が自分にとってメリットになるのか、デメリットになるかを判断し、行動する。
そうしてタイトルの「許す」ことにつながるのだが、ぼくらはなぜ人を許せない時があるのか。それはずばりそれを許してしまうと、かなりのデメリットが自分に発生すると思っているからだ。
だからその物事を許容できない。それを許容した瞬間、自分にものすごいデメリットが降りかかってくる。それを阻止するために、それを許さないのだ。
そしてぼくらは同じく、許されないことに恐怖を覚える。これをしたら許されない、怒られる。それが怖い。なぜ怖いかというと、人間、自分にデメリットがある存在を、極力排除するからだ。排除しないと自分が危うい。だから脅威はできるだけ早く排除する。それが人間の生存本能というものだ。脅威があるのに放っておく理由は、そこにはないのだ。
そうしたらぼくらはずっと、誰かに許されない、そして怒られることに怯えながら生きていかないといけないのか。いや、それは違う。
許されなくてもいいや、許さなくてもいいやと、思うことが非常に重要になってくる。合意できるのと、合意できないのはそれぞれ確率は50%。コインの裏表なのだ。許せないと言われる確率は半々だと思えば、許せないと言われてもあまり傷つかない。
それでもぼくらはあまり人に嫌われず、穏やかに過ごしていきたいと願う。それは人間の生存本能、つまりなるべく安心・安全に生きたいという果てなき欲望の結果なので、仕方ないと思う。
できることはあまり欲をかかず、人に嫌われるのを過度に恐れないことだ。そして最後に次に出てくる疑問を解消して今日は終わりたいと思う。それは言い訳についてである。
言い訳はしていいのか
相手と口論になり、意見が食い違っている。その時自分の意見を言う場合、言わない場合、どちらもあるだろう。
自分の意見を言っても聞いてくれなさそうだったし、反抗していると見られたくなくて、そっと自分の気持ちに蓋をする時もあるだろう。
別にそれを悪いことだと思わない。それはその人それぞれの処世術だし、それが一番生きる上でベストな選択肢だと思ったのだからそれでいいと思う。
よく、ちゃんと自分の意見を言った方がいいとか、論理的に説明して誤解を晴らすべきとかいうが、それは本当に正しいことなのだろうか。もちろん自分の意見を相手に話してそれでお互いが理解し合うのが、もっとも理想な形だとは思う。
しかし毎回そんな熱心に話をしあっていたら疲れてしまうし、時間も使う。何か絶対的に良いということはないのだと思っている。
結局は言い訳はしてよいか、してはいけないのかではなく、まず自分がしたいのか、したくないのかの気持ちの面が大事である。そして言い訳をしたくてもできないのだったら、そのままでいい。できないことを無理にさせようとする方が不自然だ。
別にできなくてもいい。そんなに頑張ったり、欲をかいたりする必要は、ないのである。
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