(91) 失敗への恐怖との向き合い方
ここで言う失敗とは何か。
それは他人の期待を裏切ることなのではないかと、ぼくは思う。
もちろん、自分がやろうとチャレンジしてできなかったとき失敗とも言うだろう。
ただそこに後悔はあってもあまり恐怖はないのではないか。失敗が怖いと思うときは、少なからず他人の目がそこにある気がしてならない。
この根本には孤立や孤独への恐怖がある。
誰かの期待に添えられないといけない。
誰かの期待に答えないと、自分には価値がない。
ぼくは自分のことをこのように思っているのだと思う。
ここには条件付きの愛のようなものの考え方があると思う。
こういう人間は愛される。こういう人間は愛されない。そういった○×感覚が、自分の根底に流れているのだろう。
でもこれは普通のことだとも思う。目の前にある現象が自分にとって都合がよければそれを選択し、そぐわなければ拾いはしない。
それが自分の意志でできているうちはいいのだろう。
でもぼくらはいつの頃からか、これをやったらまずいことが起きると認識している中に、他者からの排除が組み込まれている気がする。
もちろん他者から嫌われるのは、コミュニケーションを取って生きていく人間に取って、かなり重症だ。しかし他人の目を見すぎて疲れてしまうのも違うと思う。
ここの塩梅が本当に難しい。ここというのは、他人と自分、どちらを優先させるかという駆け引きである。
ぼくの場合は他人を優先しすぎる気がする。もうこの性格は30数年一緒にいるのだから、もう何か劇的なことがない限り変わらない気がする。他人より自分を優先させる性格にはもうなれないだろう。ここはもう潮時な気がする。
それよりも、考え方、捉え方を変えた方がいい気がしている。それは自分を他人と捉える考え方だ。
他人と自分がいたとき、自分を第三者的に見る自分を意識するのである。よくメタ認知と言われるものだ。
メタ認知をした時、自分は他人になる。そうなると、他人と、他人である自分、そしてメタ認知している自分という3者が出来上がる。
こうなってメタ認知の自分から、他人である自分を見てみると、相当頑張っていることがわかるはずだ。
色々と苦心しながら物事を進めようとしていること。
それでもまだ不十分だと言って、自分を責め、まだ前に進もうとしているところ。
そんな人を見て、誰も、もっとやれなんて言えないだろう。
このように第三者的な目線で自分を見てみると、例え失敗しても許してあげようと思うのではないか。
大事なことは、失敗なのか成功なのかではなく、そこまでに至るプロセスなのではないか。そしてなるべく失敗にならないよう、自分というロボットに乗ったつもりで、その自分というロボットを扱って、困難と対峙することなのではないか。
そのためには自分というロボットについて、よく理解しなければいけない。ちなみにぼくというロボットは、
- 事務作業が苦手
- 目が弱い(パソコン作業をしていると、目がすぐショボショボしてくる)
- 難しくゴールが見えない作業に対し、心折れがち
- 他人に優しくされるとすぐ喜ぶw
- 目的が理解できない作業には、力が入らない
- 人に対して強く言えない
- 人を優先しがち
など、さまざま特徴がある。このような特徴を理解しつつ、どうすれば一番良い形で進めることができるのか、考えながら進める必要がある。
重要なことは、自分を客観視することだ。一人で悩むよりももう一人自分がいるとして、主観と客観で物事に対処していく。恐怖は嫌なものではない。この恐怖という感情がなければとっくの昔に人類もそして自分も生き残ってこれなかったであろう。
大事なのはこのバランスなのである。恐怖に囚われすぎてはいけない。囚われない手段として自分を客観視するという方法があるのである。
以上
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