(98) 好きなことでは食っていけないのか?
例え自分がどれだけ歌を歌うことが好きでも、それが相手にとって価値を感じるものでなければ、食ってはいけないだろう。
肝心なのは相手に価値を感じてもらうということなのだ。
だからそういう時は、なぜ自分が歌を歌うのが好きなのかを深堀りしなければならない。
ぼくにとって好きなこととは、写真を撮ることだ。
これがなぜ好きなのかというと、
- 何を撮るのも自由だから。 →今まで”しなければならない”というしがらみが強い人生を歩んできたので、その反動で自由にやっていいことに強く惹かれる。
- 自分が良いと思ったものを、形にできるから。 →これも写真の魅力の1つで、四角形の中に、自分の好きで良いと思ったものを閉じ込められる。切り取れることが魅力の1つ。
など、いろいろある。
ぼくは思う。これでは食っていけないだろう。人によっては「いい写真だね」と思ってくれるかもしれないが、対価を支払ってまでそれを購入しようとは思わないだろう。それはなぜか。
それは価値を感じないからだ。そこに写っているものが、ツチノコとか未発見生物であるとかなら話は別だが、今や写真はデジタルでそこら中にある。とても綺麗な写真なんて、いくらでもある。
そんな何億枚、何兆枚ある写真の中で、相手にとって価値を感じるものを提供できるなんて、夢のようなものだと思う。
写真の価値とはなにか
まず価値感じてもらうためには、相手にそのニーズがあることが必要だ。
先日子どもの七五三の写真を、出張カメラマンの方に撮っていただいたのだが、これも自分が”良い”と思う写真を、複数枚撮って、納品してもらうということに価値を感じ、対価を支払っている。
ここで重要なことは、相手(お客さん)にとって、欲しいものが明確になっているという点だ。
七五三の場合だと、子どもの写真を、可愛く、明るい感じで、複数枚撮って、渡して欲しい。そういうニーズがはっきりわかっている場合、それが商品になる。
商品の形式を決めておけば、お互いストレスなく、サービスと対価の交換が、そこで行われる。
だから、写真で対価を得たいとなった場合は、そのように、写真を通じて、何か相手がニーズを欲している場合に限られてしまう。
七五三のように、子どもの思い出を残したいというニーズ。
もう、海外の絶景などはネットでいくらでも検索できる時代なので、そういったものはほぼ価値を発揮してないと言っても過言ではないと思う。
なぜなら、それは絶景を見たい、というニーズを、とうの昔に満たしてしまったからだ。
それにそれがタダで手に入れられてしまうのも、よろしくない。プラシーボ効果ではないにせよ、有料の方が、人間ありがたみを感じるものだ。
また、写真とは記録であると言える。ぼくが写真の好きな理由の2つ目が、切り取れることと書いたが、まさにそれと同じで、その時、一過性だったものを、切り取って保存できるということが、写真の強みであると思う。
七五三も、その時の子どもの様子や、当日の記憶、思い出、何があったかという記憶の断片を、写真という映像がきっかけとなり、思い出される。
あの時の幸せな気持ちを、写真を見ることによって思い返すことができる。そういう効果が写真にはあると思う。
写真と映像の違い
一方、映像はどうなのか。映像は写真の連続に、それにプラスして音声が加わるが、写真とはどう異なるのだろう。
ここで、子どもの少し前の運動会の映像を見てみる。映像も写真と同じく、その時の気持ちを甦らす効果がある。そしてあたかもその映像を撮っている人物のように、自分がそこにいるかのような錯覚を感じる。
しかしぼくが映像より写真を好む理由が、おそらく、映像が”いそがしい”からだと思う。
別に映像を卑下するつもりは全くないのだが、映像は情報量が、ぼくにとっては多すぎて、疲れてしまう。
一方写真はずっと見ていられる。このときこういう気分だったなとか、自分のペースで思い出すことができる。ぼくは自分のペースを乱されるのが不得意なので、留まっていて欲しいのだ。そう言った意味だと、動かない写真は、ぼくの性に合っている。
ここで話は戻って、写真の価値を考えると、切り取ることと途中で述べた。そして映像と違い、マイペースでゆっくりと感傷にひたることができることが魅力の2つ目だと思う。切り取って保存し、それを見ることによって、自分の世界や思い出に入れる。これが写真が提供する価値だと思う。
感傷に浸ることは、よいことなのか
それでは次に、自分の世界に入れる、言ってしまえば一種の引きこもり性が、なぜ価値を生み出すかについて述べていきたい。
一見すると、それは現実逃避に捉えられてしまうかもしれない。
写真は当然だが過去である。未来の写真はどうやっても撮れない。ベクトルが一方向であることも写真の特徴だ。
過去のことばかりに囚われてしまうのはあまりよく見えない気がする。もっと過去に縛られることなく、前を向いて行こう。そういう意見もあるだろう。
しかし前を向いて歩いていくことももちろん大事だが、たまには後ろを振り返ってみることも、決して悪くないし、逆に良い。するめみたいに、噛めば噛むほど味が出てくるということもあるし、少し時間が経ってから見ると、また違った風にその写真が見えるから不思議だ。
人生は、少し長すぎる気が、ぼくはしている。何度か記事としても書いているのだが、人間は、生物としての最終目標「生きること」をクリアしてしまい、それ以外の目標のようなものを自分で探す必要性が出てきている。
そう言ったかなり長い人生の中なのだから、ところどころ過去に帰って感傷に浸ったとしても、逆にそれが人生としての深みを生み出すかもしれない。
写真が持つ魅力をわかりやすく説明してしまうと、タイムマシンに乗ったようなものなのではないか。もっと他に魅力はあるのだろうけど、今のぼくにはこのくらいが、考えられる限界だ。
またその写真から想起できるおもしろさのようなものもあるのかもしれない。
だから、写真で対価をもらうとかそう言った次元の前に、ぼくはもっと写真のことを知らなければならないと思う。少なくとも、自信を持って、写真って、こういうところがいいと、ぼくは思うんです、と言えるくらいにならなければならない。
強くそう思う。
以上。
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