第3部 第1章 いくじなしのボブス
ここはタール村にある、唯一の図書館。建物には良い光が入り、周りは自然に囲まれている。
今日はその図書館にある、一冊の本を読んでみよう。
お百姓のボブス
あるところに、ボブスというお百姓がいました。
ボブスは働き者で、雨の日も風の日もせっせと畑を耕しました。
ボブスは身体も小さく、弱かったので、良い百姓とは決して言えませんでしたが、真面目さであれば誰にも負けず、本当に長い時間、よく働きました。
その畑もボブスのものではなく、トルマンさんという大地主の土地で、それを耕して半分は自分のものにしてよくて、もう半分を土地を貸してくれたトルマンさんに渡すという約束で、働いていました。
ボブスには妻と小さい子どもたちがいました。子どもたちは可愛く、目に入れても痛くならない程でした。
妻もよくボブスを支え、貧しいながらも幸せな家庭を築いていました。
しかしその幸せな家庭にある困った出来事が起きました。
仕事か家か
子どもの一人が病気にかかってしまいました。そしてその病気が他の子どもにもうつり、妻一人では何人もの子どもの面倒を見るのが大変になってしまいました。
ボブスも妻と一緒に、子どもの看護をしてあげたかったのですが、ボブスには仕事があります。仕事をしないとお金は入ってきません。
ここでボブスは悩みました。家のこともしたいですが、仕事もしないと、そもそも家庭が成り立っていきません。
かといって、大地主のトルマンさんに相談する勇気もありません。もし相談して、しばらく休みたいなどと言ったら、もういいと言われ、畑を取り上げられてしまうかもしれません。
ボブスはくよくよと考え、しかし何もできないまま時間が過ぎてしまいました。
食いっぱぐれる
時間だけが過ぎていったある日、子どもたちの病状が変わらないので、街にある大きな病院にしばらくの間入院させることになりました。
妻一人では子どもたちを見切れないので、ボブスも一緒についていく必要があります。入院するので何週間は家を空けることになるでしょう。
ボブスはそのことをトルマンさんに言う必要があります。しばらく家を空けるので、仕事を休ませて欲しいと。しかしボブスは怖くてトルマンさんに言うことができません。
とうとうボブスは出発の前日に、観念してこのことをトルマンさんに話しました。
トルマンさんも、急にそんなこと言われても困ります。ボブスが働いてくれない分、畑は荒れ放題になり、農作物も収穫することができません。他の人にやってもらうにも、急に明日から人が用意できるわけでもありません。
結局トルマンさんはボブスが家を空けることを許してくれましたが、その後の畑の管理を大急ぎで決める必要があり、トルマンさんはぐったりしてしまうとともに、早くこのことを言ってくれなかったボブスを、憎らしくすら思うのでした。
幸い、子どもたちは入院の成果もあってか、元気になりました。そしてボブス一家は家に帰ってきたのですが、この一件があってからトルマンさんとの関係が悪くなり、とうとう畑を取り上げられてしまうことになりました。新しく、力の強い男性が代わりに畑を耕すのだそうです。
ボブス一家は仕事がなくなり、新しい仕事を探す必要が出てきてしまいました。
ボブスは、あの時勇気を出して早めにトルマンさんに相談していればこんなことにはならなかったはずなのに、と後悔しました。しかし後の祭りで、仕事はもうありません。ボブスは泣く泣く、別の仕事を探すのでした。
この本を読んで
久しぶりにこの本を読んだ、図書館の館長は深いため息をついた。
それを見ていた、司書のゴシカは館長に声をかけた。
「なに、どうしたの、館長。柄にもなく、深いため息なんてついちゃって」
ゴシカは笑って、白い歯を覗かせた。親しみのある顔で、みんなのお母さんのイメージを集合させたらこんな人になるのではないかという女性だった。背は低いが、肝っ玉は大きい。肝っ玉母ちゃんといった女性だった。
館長はメガネをかけ、身長は高いのだが小太りでかなり猫背な男であった。おじさんとおじいさんの間くらいで、おとなしく、柔らかい印象の男性である。
「いやあ、ゴシカさん。この本を久しぶりに読んでいたんですけどね、なんか心が暗くなってしまいまして」
そういって読んでいた本をパタンと閉じて、膝元に置いた。
「ふうん、それ、どんな本なの?」
「勇気を出して人に相談ができなかったために、後々大変な目に会う男の話です。くよくよせず、勇気を出せというメッセージ性を感じます」
ゴシカは、今日返却された本を片付けていたが、館長の元に歩み、横に座った。そしてパラパラとその本を読んでから言った。
「うん、なるほど。なんかごもっともな主張ね。人に迷惑をかけないように、早めに相談しなさいってことかしら」
「そうですね。でも、これってできたら苦労しないと思いません?」
伏せ目がちな館長はゴシカに同意を求めた。
「うーん、まあ確かに館長の言うこともわかるわね。このボブスという主人公だけを責めるのはちょっと酷な気がするわね。この人も悪気があってやったわけじゃないしね」
そうなんです、と言って、館長は話を続けた。
「そこなんですよ、ゴシカさん。別にこのボブスという男は、トルマンさんを困らせようとしてやったわけではない。逆にトルマンさんから攻撃されないように、自分を守っていただけなんです」
でもさ、とちょっと反論気味にゴシカは言った。
「結果が全てとは言いたくないけど、やっぱここは一家の大黒柱として、ボブスは頑張らないといけないところだったんじゃないかなぁ。この家族でお金を稼げるのはボブスだけなんだから、今相談しなかったら後々関係性が悪化することはよく考えればわかることじゃない。それをやらなかったことは、ボブスの自業自得とも言えるんじゃないかしら」
ポリポリと頭を掻いて、困ったような声で館長は話した。
「それはものすごく正論だし、そうすべきなのはわかっていますけど、百人いて百人これができるかと言われればそうではないと思うんですよね」
「でも一人でもこれができるようにしたくて、この本の作者はこれを書いたんじゃないの?」
まあそうなんですが、と言ったとき、図書館に一人の少女が入ってきた。
近くのダンケ学校に通う子で、スイスイという女の子だ。
「あら、スイスイちゃん、いらっしゃい、もう学校は終わったの」
時計を見れば、もう三時近くになっていた。
「うん、学校終わって、本読みたくて来たの」
「あら、嬉しい。ゆっくりしていって」
そこでスイスイは、館長の膝元にあった本に気づいて言った。
「館長さん、その本なあに。面白いの?」
「うーん、おもしろいというか、ちょっと心が暗くなっちゃうかなぁ」
自信なさげに館長は言った。一応それでもスイスイはその本を取り上げて読んでみた。そして段々と顔が悲しくなっていった。読み終わって、スイスイはこう言った。
「なんだかこのボブスさんって可哀想。きっと相談できる人がいなかったんだよ」
「相談?」
はっとした顔で、館長はスイスイに聞いた。
「そう、相談。たぶん、ボブスさんとトルマンさんはそんなに仲が良くなかったんじゃないかな。だって、仲良かったらすぐ相談できるもの。それに奥さんにも相談できなかったんじゃないかな。心配させたくないとかで。だからボブスさんは勇気がないんじゃなくて、きっと優しすぎたのよ」
なるほどね、と言った顔で、ゴシカが言った。
「確かに、ボブスはあんまり自分の悩みとかを相談するタイプじゃないかもね。でも優しすぎるって難しいわね。後々嫌なことが起きるとわかっていたら、それを解決する強さもないといけない」
うーん、そうなのかな、と前置きして、スイスイは言った。
「私は強さとか優しさとかよくわからないけど、別に変に自分を変える必要、ないと思うけどな。ボブスさんは優しい。でもそれが弱点っていうか、あんまり強く言えないとか、そういうのと一緒な気がする」
コクリとうなづき、館長が言った。
「なんとなく、私は合点がついてきました。うまく説明はできないですけど、ボブスはこのままでいいと思います」
ギョッとした顔で、ゴシカは反論した。
「なに言ってるのよ、館長。ボブスが勇気を持たないままだったら、このまま中途半端な対応が続いて、この本の最後みたいに食いっぱぐれちゃうわよ」
「でもですね、ゴシカさん。人はそんなにすぐに変わらないと思うんです。特にパーソナルな部分はね。それにボブスも本当に差し迫ったら、トルマンさんに相談しました。できるものはできる。できないものはできない。それでいいんじゃないかと思います」
納得が行かなそうで、ゴシカは再び言った。
「えー、私は全然そうは思わないなー。ダメなことがあったら改善しないとずっとそのままよ。何も変わらない。自分の意思と力で変えていかないといけないと思う」
私は・・・と遠慮がちにスイスイは言った。
「館長さんのお話も、ゴシカさんのお話も、どっちも間違ってないし、合っていると思う。その人らしさを大切にもするべきだし、かといって良くないところは治さないといけないと思う」
「結局、結論は出ずってことね。」
ゴシカは諦めて立ち上がった。館長は立ち上がって、カウンター中央にある、「今週のおすすめコーナー」に、この本を置いた。
「えー、館長、その本、今週のおすすめにするの?」
明らかにゴシカは不満そうだ。にっこりと微笑み、館長は言った。
「これは重要なテーマだと思います。個人の尊重か、集団の尊重か。この本は集団を尊重させるテーマなのでしょうが、これが行き過ぎると個人の特性を殺してしまいます。おそらく個人と集団、ゼロか百かではなく、グラデーションなのでしょう。個人が強すぎれば集団を優先し、集団が強ければ個人を優先する。それがうまく機能する仕掛けがあるといいのでしょうが」
日がよく当たる図書館で、その本は、その光を浴びて佇んでいた。
スイスイはその様子が、とても綺麗なものに見えたのであった。
以上

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