テントと太陽

「なんとなく」、「どっちでもいい」はもっと使って良い言葉だと思う

みなさん、こんにちは。今日もブログを読みにきてくれてありがとうございます。

「どっちでもいい」とか「なんでもいい」とかいう言葉って、なんだか否定的な意味で捉えられませんか。もっとはっきり、根拠を持って、ロジカルに答えて欲しいとかよく聞く話です。

ですがぼくはもっとこの感覚的に物事を選択することは、もっと容認されていいと思うのです。そのことについて、今日は話していきたいと思います。

「なんとなく」という回答は、個人では許されるが、集団では許されない

仕事において、その理由を論理的、合理的に説明することは、相手とコミュニケーションをする上で、必須のスキルです。

「このプロジェクトについては、この期間で行います。なぜなら理由は3点あって、1つ目は・・・」なんて、仕事ではよく使うフレーズです。

要は、この仕事を進める上で、必要な根拠を並べ、関係者に納得してもらうのが目的です。

いわば正論です。その理由がもっともらしければらしいほど、その言葉には説得力がつきます。

でもぼくは思うのです。正論ってつまらなくないですか?

もしそのプレゼンが自分の意見と似たもので、納得性が高ければ良いでしょう。しかし仕事をしていればそうはいかないですよね。自分は納得はできなくても、会社にとってメリットが多ければその仕事をするでしょう。これは当然のことで、雇用契約を結び働いているわけですから、個人の事由で、会社にメリットがある仕事を断ることは、そうはできません。

ですから、多少納得していなくても、会社のためになる仕事をするわけですが、腑に落ちてない仕事をするのは、実につまらないものです。

しかし、仕事を離れ、趣味の時間でしたらどうでしょう。写真を撮るにせよ、絵を描くにせよ、個人の自由です。個人の自由ですから、誰かを説得して一緒にする必要はありません。ですから合理性や論理性はそこには必要ではなく、なぜその趣味をするのですか、と聞かれても、「なんとなく、好きだからです」で通ってしまうのです。

また、別の例を出すと、家に帰ってきて家事をしなければならなかったとします。洗い物をして、食器を洗って、洗濯物を干してまたたたんで、ご飯を作って、とこれらはなかなかの重労働です。

しかしやらないと着る服や食べ物が用意されないので、やらなくてはいけないことの部類に入ります。なので、しぶしぶとそれらをこなすのです。

また、昨今のコロナ禍で、子どもを見ながら家で仕事をしたり家事をしたりしなければいけないこともあるでしょう。そういうときはやらなければいけないことがたくさん出てきてしまいます。あれもやらなきゃいけない、これもやらなきゃいけない。それで一杯一杯になってしまって、ものに当たったり、子どもに強く言ってしまったりする。けっこうこの「やらなきゃいけない」というのが厄介者なのです。

「やらなきゃいけない」という気持ちと、どう付き合っていけば良いのか

この厄介な、「やらなきゃいけない」とは、一体全体、どう付き合っていけば良いのでしょうか。

というかそもそもなぜやらなきゃいけないと思うのでしょうか。

それはこれをやらないとまずいことが起きると思っているからですよね。今までの自分の経験上、これをやっとかないと後々まずいことが起きるということで、その根を摘んでおくのです。要は未来のリスクを現在で消しているのです。

これはとても合理的な動きですよね。未来のために今がんばる、なるほど、納得性が高い説明です。しかしここでもう1段階考えると、なぜ未来のために今頑張らなければいけないのか、という話になります。それは未来で困らないためとなると、なぜ未来で困るのはいけないのか、という話になります。それはなぜか。それは結局生き続けるのが大変になるからというのが理由なのではないでしょうか。

ここまで行くと、なぜ生きるのか、という話になってきます。これはあくまでぼくの考えですが、ぼくの場合は「これがやりたくて生まれてきました!」という意思を持って生まれてきたわけではないと思います。気づいていたら生きており、生活をしていた感じです。ですから生きる理由を問われても「特にありません、なぜか生きてます」がその回答になります。

とはいってもお腹が減ったり凍えたりするのが嫌で働いて、お金を稼いで生きています。また、子どもに不憫な思いをさせたくないので、働いているというのが理由です。

しかしここでもう少し考えてみると、なぜお腹が減ったり凍えたり、子どもに不憫な思いをさせたくないかと考えると、結局は「人類という種族の繁栄」が目的なのかなと思います。

次に、話を少し変えて、「思い込み」の話をしようかなと思います。

人間、全ては思い込みである、と思う

人間、思い込みが9割だ、なんて話を聞きますが、ぼくは10割思い込みなんじゃないかと思っています。

例えばAさんに自分は嫌われていると”思い込んで”いたとしましょう。なぜそう思うかというと、自分への接し方や態度、口調から、なんだか冷たくされていると感じたからです。

これは自分の予想ですよね。今までの経験上、こういう態度をされた人からは嫌われていたというデータから、予測しているわけです。

しかしこの予測を検証することはできないですよね。なぜなら相手がどう思っているかは、検証しようがないからです。誰かにAさんにこっそり自分の評判を聞いてもらって、真意を確かめるといった方法がありますが、その言った言葉が本当であるからは検証ができません。また、自分の本当の気持ちなんてひどくあやふやなものです。

このように相手の気持ちを真に確認することはできず、「多分こうだろう」と決めつけて行動しているわけです。でも決めつけないと行動ができないので、これはとても真っ当な動きです。

先程の生きる理由のところに話を戻します。前述の通り人間の考えは、全て思い込みであるという自論を述べさせてもらいました。これを応用すると、生きる理由も思い込みなんじゃないかと思うのです。

子孫繁栄のため生きているというぼくの思い込みがあるからこそ、生きる理由をそこに求めている気がするのです。

お腹が減ると辛い、辛いのは嫌だからご飯を食べる、ご飯を食べるために働く、というのはとても合理的な動きです。しかしこれだとただ生物的な反応に、身を任せているだけだと思います。

本当は生きる理由なんてないのです。ないのだけれども、生物としては(生きる物と書くくらいですから)生きることが目的となっています。だから生きるために必要な機能として、痛みとかストレスとかがあるわけです。これは生きることを目的とした時の手段(方法)なのです。

ですが再三になりますが、生きるための目的というのは特に設けられていません。これは一個人ごとが自分で設定する物だと、ぼくは思います。生きる目的は自分で設けるのです。

ここがなかなか難しいです。なぜなら正解がないからです。逆に言うと不正解もありません。今までは何かを目的とした場合、王道と言うか正解みたいなのがあります。それは目的が正解なのではなく、手段が正解かどうかと言う話です。

ではどうやって生きる目的を設定すればいいのか、という点につき、ぼくの意見を最後に述べさせてもらいたいと思います。

「なんとなくやってます」「どっちでもいいか」が、人生を決める

まずどうやって生きる目的を設定していこうかと考えたときに、今までの「常識たち」が行手を阻んでくると思います。

自分の自由な意思で動こうなんて、危険だよ。

今まで通りのやり方でやった方がいいよ、だって今までうまく生きて来れたじゃないか。

などと言う囁きが聞こえてきます。

しかしこれらは「生きること」を目的とした場合、それを成功させるための手段の話ばかりです。もちろん何かを人生でやるためには生きていなければなりませんので、生きるのは必須なのですが、今はそれより上位の目的の話です。これらの囁きは重要だと思いつつも、先に進まなければなりません。

こういう声が聞こえたときにおすすめなやり方があります。それは心の中でも実際に声に出したり紙に書いてもいいのですが、「まっ、いいか」とか「大丈夫、なんとかなるさ」とかこれ以上自分を責めるのをやめることです

手段を追い求めて行っても、際限がありません。注力すればするほど手段は出てきます。ですから、これをやった方がいいかな、あれをやった方がいいかな、と迷ったときはそれ以上迷わず、「まっ、いっか」と思って、思考を停止させてしまうことです。一旦その囁きは無視するということですね。極端な話をすると、もしそれで失敗してもそれで何が起こるというのでしょう。生きるという目的を達成できなくなるのが怖いのでしょうか。でもそもそもの生きる目的がないのに、生きていても、それは生きている意味があるのでしょうか。そう考えると、いかに自分が生きることに執着していたかがわかってきます。

次に、そのささやきを一時停止させることができたなら、次は自分の好きなことをするのです。ただいきなり好きなことをしようといっても、なかなかできないでしょう。そういうときは外に散歩したり、ボーとしたり、いつもと違うことをしてみることをおすすめします。

ちなみに言うと、家に閉じこもるのは勧めません。どうしてもテレビやスマホから情報を入手してしまい、なかなか自発的に自分の好きなことをするのが難しいです。できれば外に出て、いつもと違うことをしてリフレッシュしましょう。

急には好きなことは出てきません。ひょっとすると半年、1年経っても発芽しないかもしれません。ただその中で意識した方がいいことは、少しでもやりたいと思ったことは、その理由がちゃんとしていなくても、心の赴くままにやってみることです。

ぼくは2年前くらいから写真を始めたのですが、そのときはなんとなく始めました。コロナ禍で家で暇で、YouTubeを見ていて自分もこういう動画を作りたいなと思って一眼レフを買いました。一眼レフは高価なので別に高価なものを買う必要はないのですが、別になんでもいいのです。好きにやればいいのです。ただ大事なことは少しでもいいから、自分に好きなようにさせると言うことです。

このときまたあの囁きが聞こえてくると思います。

そんなことやってなんの意味があるの?別に役にも立たないし、時間の無駄、お金の無駄だよ。それにそんな変なことやっているなんて、どうかと思うよ、と。

でもいいんです。こんな声が聞こえたらこう言いましょう。

「いいんです、これ趣味なんです」と。誰にも迷惑をかけなければ、自分の趣味について、他人にとやかく言われる筋合いはありません。自分のなぜだかわからないけど、心惹かれるもの、好きなことを、少しずつやってみてください。急に頑張らなくていいです。少しずつ、ちょっとずつ、やってみてください。

そのときはなんで自分ってこんなことに興味を持っているんだろう、と思うのですが、後々それらの点が、線で結ばれる時がやってきます。スティーブ・ジョブスの「コネクティング・ドッツ」みたいにです。そのときは全く無関係だと思っていたことが、不思議と未来の自分にとって、とても重要なことになっていたりするのです。

それらを信じて、自分の好きなこと、趣味をやり始めて欲しいです。そして悪魔の囁きが聞こえてきたら、「まっ、いっか」といって、それ以上自分を責めないようにしてほしいです。

分身ロボットOriHimeを作った、吉藤健太朗さんをご存知ですか。あのかたは黒い白衣をいつも着ているのですが、ラジオに出演されたときにその着ている理由を聞かれたときの答えが、とても印象強く覚えています。

着ている理由は「趣味だから」だそうです。

何か機能性やファッション性を求めてやっているわけではなく、ただなんとなく着ているとのこと。

この言葉、大好きです。趣味でいいんです、何事も。今は生きることが絶対的な目的になりすぎている気がします。そうではなくて、生きることは違う目的の手段であり、その目的を自分として定義できることが、ひどく重要な気がしている今日この頃です。

今回は以上になります。お読みいただき、ありがとうございました。

2022-08-06|
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