性格を直すとはどういうことか?
「性格を直す」という言葉があります。
あまりに自分勝手だと、もっと自分勝手なことを直しなさいと言われます。
しかし、この直すというのは一体どういうことでしょうか。
・・・といきなり、すみません。
今日もこの記事を読みにきていただき、ありがとうございます。
今回は冒頭にもあるように”直す”という行為について話をしたいと思います。
ここでいう”直す”とは、壊れたものを直すという意味合いでなく、性格を直すとかの「修正」や「変更」の意味合いで話をしていきます。
それではどうぞ。
性格は直るものなのか
よく、性格を直すと言います。
冒頭に書いた、自分勝手なところを直す、というのもそうです。
子どもに当てはめてみましょうか。
子どもは小さい頃は自分のやりたいことしか主張しません。
そして、親から「もっと周りを見ろ」とか、「相手の気持ちに立って考えなさい」とか注意を受けます。
子どもは基本的には親なしには生きていけない存在ですから、親のいうことに基本的には従います。そのため、自分の意見・主張を我慢することをここで覚えます。
ここで自分勝手だった性格は直ったと言えるのでしょうか。
それは言えないと思います。
ここではあくまで、我慢をしているだけで、自分の根源的なところは何も変わっていないと思います。
人間は根源的に自分が思ったことをやりたいと思うのが普通ですから、そこは何も変わっていないわけです。
ただ、周りの状況を見るという俯瞰能力がここで身につくわけです。
内気な性格を直したいと思ったことがある
僕は今まで「内気な性格を直したい」と思ったことが、過去あったような気がします。
自分がそこまでおしゃべりではなく、コミュニケーションが得意な方でないので、もっとフランクに誰とでも話せる人に憧れて、こう思ったことが、確か昔にあります。
このアプローチはあまり僕はお勧めしません。なぜなら自分の根源的なことを変える試みだからです。
人間は生まれながらにして持っている”性格”があります。もっと言えば、生まれながらにして持っているもの、プラス、幼少期に身について、それが性格となったものたちのことです。
これを大人になってから変えることはできません。というよりは自分の力では無理です。なにか大きな外部要因によって”変わらざるを得ない”状況になったら自然に変わりますが、自分の意思程度では変えることはできないと思った方が良いでしょう。
というよりも、なぜできないかというと、無理矢理変えるのは、とても非効率なことだからです。自分そのまま、ありのままでいいのに、あえて変える必要がないからです。変えなければいけないと思うのは幻想です。しかもそれは誰かからインプットされた偽物の情報です。そこに従う必要はありません。自分自身、そのままでいいのです。
もちろん、ここは取り入れたいなと思うところがあれば、それを取り入れることは良いでしょう。でもそれは自分の性格を直したとは言いませんよね。逆にいうと、直したのではなく、取り入れたと言った方が正しいでしょう。
僕はよく妻から、家事のやり方について、ここをもっと直してよ、と言われることがよくあります。
ここで、そのまま何も考えず従うのは苦痛です。なぜならそれは自分のやり方ではないからです。
しかし一緒に住んでいるという、いわゆる運命共同体という位置づけになってくると、多少の我慢をしなくてはならない場面が出てきます。
そこでストレスを感じすぎてしまうご夫婦は離婚とかそういった事態になっていくかと思いますが、うちの場合は、子供のために離婚はしたくないという暗黙の了解がありますし、僕は僕で、そう言った全く違った価値観を持った妻で面白いから結婚したわけなので、そこに後悔はありません。それはたまにはむかっとするときもありますが、それは違和感や異物、宇宙人(笑)と遭遇しているんだということで、前向きに捉えるようにしています。
(ちなみに僕は離婚に対して、全くネガティブな印象を持っていません。したいならばすればいいと思うし、したくないのであればしなければいい。ただそれだけの話です。)
それでも嫌だったら最後の手段があるわけで、(絶対にそんなことは起きませんが。その理由はこの記事の最後でわかります。)変にストレスを抱えないようにして生きています。
だいぶ横道に逸れましたが、性格を直すなんてことは、存在しないのです。
というより存在しているのであれば、それは間違っていると思います。無理に自分を変えることは、本質からズレています。
自分自身あるがままでよくて、それでも「直せ!」と言ってくるなら、その人とは離れましょう。
そこに愛はありませんので。
今日は以上になります。
お読みいただき、ありがとうございました。
[…] 以前「性格を直すとはどういうことか?」という記事を書いた。 […]