いい写真とはなんだろうか

いい写真とは人によって価値観が違うので、明確に定義をすることはできないと思うが、自分の中で琴線に触れるというか、感覚的に、「あっ、これいいな」と思うものであろう。

それはつまり、自分の中でこれはプラスであると認識したということであると思う。

ではなぜ好意的に、その写真を受け入れてくれたのか。それは何か自分が欲しがっているものが、そこに含まれているのだからだと思う。

つまり、七五三の写真だったら子どもが可愛く撮れている写真、就活で使う面接写真であれば、誠意や清潔感が伝わる写真と、目的に合致しているものが、いい写真と受け入れてもらえるのだろう。

ただ自分の中で、いい写真とは目的に合致した写真のことであると言っても、なんだか釈然としない自分がいる。これはなんなのだろうか。もっと自分の中で、いい写真とはこうあるべきであるという基準があるのか。

ぼくの中でいい写真とは、美術的に美しい配置やバランス、そして色使いが使われているものだと思う。

でも、そういった綺麗な写真を見たところで、「うん、綺麗ですね」で終わってしまい、それになんの意味があるのかと思うときもある。綺麗な写真を撮ったところで、自己満で終わるだけで、人の役に立つのだろうかと思うときもある。

ただ、依頼に基づかない写真は、すべて自己満と言ってしまえるのかもしれない。自分の自己表現の一つとして、”いい”と思った写真を撮る、現像する。じゃあ自分が納得のいく”いい写真”が撮れた、となってそれがなんの意味を持つのだろうか。

かと言って、依頼主(クライアント)の言う通りの写真が撮れたからと言って、それが何になると言うのだ。自分を押し殺して撮る写真に、自分として生きる意味以外に、意味はあるのか。

だから究極形態は、自分がいいと思った写真が、相手にとってもいい写真であり、感動や好意的な感情を引き起こすことができることだと思う。

こんなことができるのか。ぼくには奇跡にしか思えない。しかしそれが起きることを信じて、行動していくしかないと思う。

以上

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