どうして仕事をしなければいけないと思ってしまうのか

しなければいけない仕事がある。

そう言って残業する人がどれくらい多いことか。

別に残業や、仕事をしている人を批判したいわけではない。

ここでぼくが言いたいのは、どうして仕事にこんなに強制力が働くのか、というところである。

この記事を読めば、少し仕事への抵抗感が和らぐ・・・かもしれない。

「働かざるもの食うべからず」ということわざがある。読んで字の如く、働かないと食べていけない、死んでしまうということだ。

ぼくはこのことわざがすごく怖い。
そうか働かないといけないのか。働かないと死んでしまうのか。じゃあ働こうと思うわけだ、死ぬのがいやだから。

ぼくは今なぜ働いているのと聞かれたら、「食っていくため」と答える。自己実現とか、人のために働くとかかっこいいことを言いたいが、本当は「食っていくため」。自分や家族が路頭に迷わないために働いている。

これはこれで十分えらいことをしていると自負している。なにをもってえらいというのは、しっかりとした根拠があるわけではないのだが、生きるためには働くということは、しごくまっとうなことに思えるのだ。

しかし、ここで考えておかないといけないことがある。
それは『本当に働かないと、死んでしまうのか』ということである。

ここでいう死んでしまうというのは、ぼくは飢え死にだと思う。働かないと給料が入らない。給料が入らないと、食べるものが買えずに、飢えて死んでしまう。

しかし、今の日本で本当に飢え死にすることができるだろうか。
お金がなくなったら、じき飢える一歩手前までは行けるだろうが、そこまで切羽詰まったら、どこかの飲食店に入って無銭飲食をするのではないか。
それかコンビニやスーパーへ行って、万引きをするのするのではないだろうか。

つまりお金はなくても、食べるものはそこらじゅうにあるわけで、おそらく飢え死にする前に犯罪を犯して、食べ物にありつくだろうというのがぼくの予想である。

もちろん犯罪はいけない、無銭飲食も万引きも絶対ダメである。
しかしここで言いたいのは、飢えるという極限状態に行く前に、食べ物はあるわけだから、それらを拝借する行動に、人間は動くだろうということなのである。要は死なない。死ねない。

ではどうしてこんなにぼくみたいに、飢えて死ぬことが怖く感じるのだろうか。

冷静に先ほどのように考えていけば、一番恐れる死の状態には、なかなか行き着けないことはわかる。ではなぜ飢えて死ぬことが怖いのか。

もうこれは、「死ぬのは怖いことだ」というのが頭の中にインプットされているからに、他ならない。

ここでいうインプットとは、本能的なものを指しているわけではない。いわゆる教育などからくる刷り込みである。

「働かないと、悪いことが起こるよ」

「普通は働くよ」

「みんな我慢して働いているんだよ」

「人の役に立たないと、生きていけないよ」

これら、いわゆる一般常識をぼくの場合は大人になるまでに、教えられてきた。ぼくはこれらを正しいことだと思い、一生懸命働くこと、歯を食いしばって耐えることの重要性、自分を抑えて協調性を図ることを、モットーにして生きてきた。

別にこれらが悪いことだとは思っていない。ただ、これらは必ずしも正しくない。正しいかどうかは自分で決めていいと思う。

働かなくても、現代社会では、なかなか”死ぬ”という状態には行けない。働かないと死ぬというのは刷り込みである。
刷り込みだけど、論理的に間違ってないから、信じやすい。
人は一人では生きていけない→誰かと協力する必要がある→誰かの役に立つ必要がある→そのために働く→働かないと人の役に立てない→役に立たないとその集団から除外される→一人きりになる→一人では生きていけずに死ぬ。・・・こう考えると、やっぱり働かないといけないと思う。とても合理的な考え方だ。

だけどもう、そこまで肉体労働をしなくても、生きることはできるように進化したし、たとえ働かなくなって、お金がなくなってきたとしたら、また働くだろう。なぜなら死にたくないから。もうそこまで死に怯えなくても、死ぬことが難しいくらい豊かに世界はなっていると思う。

働かないというと、ぼくはホームレスの人を思い浮かべる。あの人たちは働かずに、誰かにお金を恵んでもらったりして、日々生きているのだと推測する。よく、ぶらぶらしてないで働け、という人もいるが、あれは、働かなくても生きていけるから、働かないんだと思う。働かなくてもお金を少しでも恵んでもらえば、生きることができる。汗水垂らして働くより、そちらの方が生きるという観点では生きやすいわけだ。とても合理的である。

人間は、これまで生きることを最上目的として、生きてきたと思う。しかしもう物は溢れ、生きることだけを目的に食べ物を生産せずとも、生きることができるような時代になっている。
もう1日ずっと働かなくても、生きるだけの十分の食料を手に入れることができてしまったのだ。

そうすると、人間は今まで最上目的としていた、生きるという目的がなくなってしまった。生きることを目的にしなくても、生きれる時代になってしまったのだ。

最低限、生きるためにすることをしたら、後の時間はなにをすればいいのか。もうこういうことを考える時期に差し掛かっているのである。

その、死ぬまでの時間をどうやってつぶしたらいいのか、そのために生み出されたのが、「仕事」なのだと感じる。

仕事にはいろんな種類があるが、生きるのには不要な仕事もたくさんある。

例えば服。服も機能性だけを重視すれば、色や形なんてどっちでもいいわけだ。しかし色々な色を使ったり、形を変形させて、ファッションとして楽しんでいる。

車だってただ走るだけだったら、形や色もあんなに多種多様にしなくて良いはずだ。しかし実際世の中にはたくさんの種類の車が走っている。

このように、もう”生きる”だけを目的とした仕事は少なく、まさにどうでもよいことを突き詰める仕事が、世の中の大半を占めているのだ。それにまず気付くべきだと思う。

仕事をなめている、という言葉を聞くが、仕事は遊びである。

医者や消防士の仕事も遊びなのかと聞かれると、やはり人命に関わることは、”生きる”に直結した仕事だと思う。あれは遊びではない。

ぼくが言っている遊びの仕事というのは、人の命とかそう言ったかけがえのないものを扱うものではなく、もっと遊んだり楽しく遂行するものを指している。

もっと仕事を楽に、楽しく考えよう。なぜなら仕事は遊びだからである。仕事をやらなければいけないとか思っているのは、子どもが「あーあ、大変だ。おもちゃで遊ばなきゃいけない」と言っているくらい滑稽なことである。

今日は以上です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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