なぜぼくは自信がなくなる時があるのか

なぜかぼくは発言していて、途端に自分が言っていることに、自信がなくなる時がある。

最初は普通に話しているのに、段々としりつぼみに声が小さくなっていくのがわかる。

そして話し終わった後、聞いているみんながしら〜としている感じがして、とても自分が恥ずかしくなる。穴があったら入りたい気持ちになる。

また喋っている時に、顔が歪んでいることがよくわかる。とても苦しそうに話をしているのだろう。話される側にとっても嫌だろう。それはわかる。

なぜぼくは自分が話していることに、自信が持てなくなるときがあるのだろう。

それは相手がぼくを嫌いになったり、馬鹿だと思われたりするのではないか、と不安を覚えているからなのだろう。

それはぼくが与えられている役割を果たせていないので、周りからの評価が下がることを恐れているのだろう。

役割とは色々ある。ごみを決まった日に出すのも、常識人というかその地域に住む人の役割やルールだ。

それだってなかなか難しい。ちゃんと決まった日の、決まった時間までに、決まった量で出さなければならない。きっとできない人もいるだろう。

役割やルールを考えると、その規定に縛られ、非常に動きづらく、しんどい思いをする。

いっそのこと、全然できていませんと言えればいいのだが、そうなると、相手はぼくを見捨てるだろうから、それをすることができない。

役割を果たせない自分は捨てられると思っているのだと思う。それは逆に自分が相手のことを、役割を果たせなくなったら捨てようと思っているのに、他ならない。

別にいいのではないかと思う。役に立たなくても。でもそうなると孤立し、死んでしまうのではないかという恐怖に苛まれる。

そういえば、「こんな夜更けにバナナかよ」という本で、障害を負った主人公だが、それで自分を役に立たないとは思っていなかった。周りの人も逆に、介護の訓練ができると言った形で、その人の周りには人が集まった。

また安田佳生さんも、役に立たない方が難しい、役に立ってしまうものだと、言っていた。

そもそも役に立つかどうかは自分が判別するのではなく、相手が判別するものだ。そういった意味だと考えすぎはよくない。かといって、人の目を気にしすぎないのも良くない。なんとこのバランスが難しいことだろう。どこかで線引きを引くことはできないものか。

ただぼくはいっそのこと、ダメ人間を突き通したいと思う。生物の基本構造から言うと、ダメだったり、能力が低かったり、役に立たなかったものは捨てられる。それが弱肉強食の世界だ。

でもぼくはそれに対し、ある意味、中指を突き立てて反抗したい。そもそも気付いた時にはこの世界に生まれ生きていたのだ。その中で急に「弱肉強食だよ、頑張ってね」と言われても、知らんがなと言いたいところである。

ぼくははっきり言って、この弱肉強食の世界に飽き飽きしている。だから、ぼくはあえて弱者になる。それで生きていけるとなったら、それこのこの弱肉強食の世界のルールを捻じ曲げられると言うものだ。

ぼくは弱者でいい。それでも生きれることを証明していきたい。

以上

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