(107) ヒトは利己的か、利他的か

これもずいぶんと長い間、考えているテーマだ。

今日はこのことについて、考えていきたい。

まず結論から先に言うと、ぼくはヒトは利己的な生き物だと思っている。

そう思う理由を順を追って説明していきたい。

まず、ヒトはなぜ生きるのかという問題

これはだいぶ前に自分の中での答えが出ているのだが、ヒトが生きる理由は生物だからと言うのが自論だ。

生物というのは生きる物なのだから、生きていないと生物ではない。そしてヒトは生物なのであるから、ヒトは生きているものでなければならない。だからヒトは生きるのだという論理だ。

なんだかこう聞くと身も蓋もない話になってしまうが、ヒトが、いや生物が誕生した時から、「生きよう」とか「持続しよう」とかそのために「増えていこう」とかそういったベクトルに向かったものたちが、ヒトの祖先なのだと思う。

だからヒトは生物であるという前提がある限り、ヒトは生きることを目的にした物ということとなる。それがヒトというか生物の存在意義となる。

生きるための手段(一時的と恒久的)

それでは次に、ヒトはどうやっていけば生きていけるのかという問題がある。

もちろんこれは、食べ物を摂取する、睡眠を取る、寒さ・暑さから身を守るなど、一時的な肉体の保存という意味の目的もあるが、時間軸で見ていくと未来までヒトが生きていくためには、一世代だけでは何十年かで終わってしまう。

そうならないために、何百、何千と生きていくためには子孫を繁栄させるということが絶対条件になってくる。一時的には栄養の摂取とかで良いかもしれないが、ゆくゆくは子孫を作っていかないとヒトや生物は絶滅してしまう。

今回は一時的な栄養の摂取などの話は置いておき、子孫の繁栄の点をフォーカスして話をしていきたい。

一番良い、子孫繁栄法

どうすれば子孫を効果的に残せるかという点においては留意すべき点がいくつかある。

まず一つ目が、単一コミュニティだけで繁栄しないことである。

これは世界史を見るとよくわかることだが、近親婚を繰り返した王族は子どもの体が弱く、断絶してしまった。これは同じ遺伝子を持つヒトが交配することを、生物として禁止した象徴だと思う。

やはり自分とは違うヒトと子孫を残していくことが、自分の足りない部分を補完し合うという、補強の意味があるのだと思う。

そのため、自分とは違う他者の存在を受け入れることが、痛みも伴うが、これを乗り越えることで末長く生きていけるということなのだと思う。

自分が一番コントロールすることができる

そして次に、自分の遺伝子を優先するかどうかということである。

ヒトという生物を永く生き残らせるという意味だと、別に自分ではなく、他人でもよいわけである。

しかしヒトには恐ろしく強い生存本能が備わっている。これが生きる源となっている。

だから何十人かいて、そこから数人しか助からないとなった場合、他人を蹴倒してでも、自分は生き残りたいと思うのが、普通だと思う。これはなぜなのか。ヒトという遺伝子を残すためであれば、自分ではなく他人でもよい。

これは他人に比べ、自分の方がコントロールしやすいからだと考える。他人は何を考えているのかわからないし、体を操ることはできないが、自分の体ではそれができる。

ロボットで考えると、自分というロボットを自分が操縦しているイメージだ。他人のロボットは他人が操作しているから自分は操作できない。そして自分は”遺伝子”という宝物をコックピットの中で持っている状態だ。

何があってもこの”遺伝子”を守り抜かないといけない。それを遂行するために、”体”というロボットを扱っているのが君だ。

他のパイロットはどうするかわからない。もちろん彼らが持っている”遺伝子”を運ぶのが任務だ。だが彼らは失敗するかもしれない。遺伝子を運ぶことができず、終わってしまうかもしれない。

だから自分がこの遺伝子を守り抜くしかない、そんな感じだ。だからやはり他人より自分を優先させる。これがぼくがヒトは利己的だと論ずる証明である。

そのため、自分を他人よりも優先させることは一つも間違っておらず、一番良い選択だと言えることができる。

しかしこの世の中には、「自分勝手はよせ」、「他人を気遣え」などという言葉が横行し、それを実行するのが美徳であり、非常に良いことだと思われている。これは今までぼくが論じた話と食い違う部分である。これはなぜこうなってしまったのか。

生物であれば、自分中心で全く問題がないし、それをしないと弱肉強食の世界で生き残ってはいけない。しかしヒトは独自の進化を遂げた。それが「協力」という武器である。この武器を使うためにはなんと一時的には”自分中心”を捨てなければならないという捨て身の技なのだ。

協力という独自文化

ヒトと言い切ってしまったが、実は人間以外でも協力し合う生物はたくさんいる。

ぼくの好きなエピソードはなんといっても、カバと鳥である。

カバは食べた後、当然人間のように歯磨きができないから食べかすなどが口の中に溜まっていって、どうにも居心地が悪い。

しかし口をあーんと開いていると、その食べかすを狙って鳥が突いて食べてくれる。

カバは食べ残しがなくなってスッキリするし、鳥は食べ物が食べれていわゆるWin-Win状態になる。

この協力し合う時に”Win -Winである”というのが非常に重要であるから、覚えていてほしい。

基本的に何か他者と協力するときはお互いにメリットがないと協力し合わない。しかし人間の場合は一見自分には不利な状態なのに他者に何かを譲る時がある。

例えば電車の中で、席を譲ることを見てみよう。

わざわざ自分の体力回復や温存を捨て、なぜ他者に席を譲るのだろうか。他の生物がもしこの状況を見ていたとしたら、理解ができないだろう。

もちろん高齢者や障害者の方に席を譲るものだと教えられて反射的に行なっている部分もあるだろうが、なぜ席を譲るという文化が、人間世界で流通したのだろうか。

ぼくが考えるにあれば「人間社会は助け合いの社会だ」というデファクトスタンダードにするための一種の施策なのではないだろうか。

生物の世界では弱肉強食で、弱いものはいなくなり、強いものが生き残るのが大前提になっている。

しかし人間社会は弱者を守ろうとする。これは人間のオリジナルな文化だと思い、これが人間らしさを物語っていると思う。

一見生物として矛盾していることを、普通のこととして扱う。ぼくが人間が好きな理由がここにある。ものすごく生物としては矛盾しているのだ。

もちろん、弱者を守れるくらい余裕のある社会を作ることが、ゆくゆくはヒトの繁栄に繋がっていくという裏理由があるのかもしれない。でもそれは正直無意識に行なっていることで、よし弱者を守ることで人類を繁栄させようと思ってやっているわけではないはずだ。

話を戻して、協力の話だが、このように一見自分が損をしたりすることを行うことで、ヒトという種全体の繁栄をアシストする行為を、ヒトは行なっている。

だから、人を優先しなさいというのはかなり余裕がある状態の時に言える言葉であるとも言える。余裕がないときは他人のことなど、構っていられないからだ。

そうすると、以下のことが言えると思う。

前提:ヒト(生物)は生きることが目的である

方法:そのために、自分を優先することが大前提となる。なぜなら自分が一番コントロールしやすいからだ

方法2:余裕があるときは他人というヒトについてもアシストしても良い。それはヒトの繁栄に寄与するためである。

ヒトは利己的であるが、種全体を見たときは他人を優先したりしてアシストしてもよいということだ。

これが「他人を優先しろ(自分に余裕がある時だけね)」なのに、この「(自分に余裕がある時だけね)」が消されてしまい、「他人を優先しろ」だけが残ってしまっている気がしてならない。

他人だけを優先してしまうのは、別のパイロットに、遺伝子輸送プロジェクトの責任を押し付けることに他ならない。まずは自分の任務を全うする。それがある意味責任のある生き方なのではないだろうか。

また、もちろん他人に寄与(ギブ)した分、後々自分に返ってくるという打算的な思いで、他人を優先するということもあると思う。

それも結果としては、はっきり言うと利己的な理由でやっているだけある。

だから他人を優先すると言う事は、もちろん美徳感覚はあると思うのだが、結局自分のためであったりすることがあるのだから、それは認めて、まずは自分を優先することと、余裕がある時に他者を助ける(それは未来の自分を救う意味で)と言う方法であることに気付いた方が良いと思う。

だからと言って、殺伐とした雰囲気を作ることは目的には合っていないような気がする。助け助けられ、自分の宝物である”遺伝子”を運んでいく。そして相手も相手の宝物である”遺伝子”を運んでいく。このWin-Winの状態を作ることが、ヒトや生物の繁栄のためのキーワードであると思う。

以上

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