(49) 敵とはなにか

敵とはなんだろうか。

自分を攻撃してくるもののような気がする。

または自分のやりたいことを阻害してくるもの。

もしそれらがやってきたら、全力を持って対峙するだろう。

「敵」という字と、「対」という字は、字源が似ている。

どちらも相手がいて、それに対峙しているイメージがある。

確かに敵というものは自分と同じではなく、相対しているイメージがある。

自分ではない、外にいるもの。そして自分とは相容れないもの。

しかし、相対しているばかりではストレスが溜まってしまう。

相対するのではなく、それを包含してあげるのが必要なのだと思う。

イメージ的には下記となる。

相対と包含

これはYES/NOで区分けができると言える。

つまり自分と相容れないものは敵(NO)、自分と共に包含できるものを一緒(YES)にする考えだ(YES)。

昔何の漫画だったか忘れたが、意思が複数あるが、体は一つである怪物の話があった。

何人かの人間が、一つの体を共有しているのだ。

それでどこかの体が壊れると、そこは切除されてしまう。その時その体の部位を有している意志も一緒に切除されてしまうのだ。

もし手足に怪我を負って、そこを切除しなければならなくなったとき、そこに意志はないから、あとは切除の痛みだけ我慢すればそれは可能となる。

なぜそれを切除するかといったら、接続された状態が続くと、他に迷惑がかかるからだ。その時容赦なく不要な部分は切除される。

自分の体とかそういう生命に関わるところは仕方がないと思うし、別に切除される手足に意志や感情はないのだから、別に問題はないと思える。

しかし、対人の時はどうなのだろうか。もし自分の周りに凶悪犯罪者がいたとして、それを敵と見なさず、自分と一緒に包含できると思うか?いや、無理だと思う。

なぜならそれは自分への害悪が大きいからだ。どんなに器が大きい男でも、自分に悪影響があるものを取り入れられるくらいの器を持っている人が、果たしてどれだけいるのだろうか。

もし受け入れられたとすると、それは害悪よりも、受け入れることによるメリットの方が大きいから、メリットとデメリットを差し引いても、メリットの方が大きいから敵を受け入れるのだと思う。

それは仕方がないことだと思う、残念ながら。みんなと仲良くしたいという儚い願いはあっても、現実は違う。絶対に仲良くなれるという「絶対」は存在しない。逆にいうと、「絶対がない」ことが絶対だと思う。

敵を排除し、自分に利益があるものを取り入れていく。それは正しい行いだろう。

しかし、排除しまくっていいのか?自分にとって気に入らないものは排除してしまっていいのだろうか。

一番厄介なことが、捨てたい(排除したい)のだけれども、その排除対象に付属するメリットは捨て難いというパターンである。

メリットとデメリットが拮抗している

こういう時は概して、捨てるメリットと捨てるデメリットが同じくらいあるので、捨てるかどうか揺れてしまう。迷ってしまう。すぐに決められないから悶々とし、疲れてしまう。

しかしこういう時は結構余裕がある時だ。もし忙しい時なら何も考えず捨ててしまうか、とりあえずとっておくという暫定対処を行う。迷えるときは本当に重要な時か、迷っても多少許される時間がある時である。

では迷うのが辛いのなら、どうすれば迷わなくなるかが気になるところである。例でいうと、昼ごはん何を食べるか迷っていたとする。ラーメンにするか、カレーにするか、コンビニ弁当にするか。

でも正直どっちでもよくないか?食うのに困ってないなら、なんでもいいではないか。だから、ほとんどの迷いは、どっちでも良い。それに迷えるということは選択肢が複数あるという恵まれた環境であるということも忘れてはならない。

タイトルにもある「敵」については、敵とみなし排除することもできるし、味方として自分の内に取り込むこともできる。選択肢があるのだ。

まずはできれば敵と見なさず自分のうちに取り込む努力をすること。しかしその努力が辛いものになってはいけない。好き嫌いと同じで、嫌なものは嫌だろう。

もし敵(自分とは相容れないもの)ができてしまったら、それを排除しても構わない。距離を置いても構わない。この世の中に絶対はないのだから、好きにすればいいと思う。

しかし心のどこかで、一方的に排除してしまうことに、拒否反応を起こす自分がいることも確かだ。無理とは分かっていても、敵を作らず、みんなが仲良く笑っていられる状態を作りたい。果たしてそんな”絶対的に幸福な世界”は作ることはできないのか。ぼくはまだ諦めきれないので、また悶々と思考錯誤していきたいと思う。

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