(63) 一体全体、ぼくたちはどこまで頑張ればいいのか

よく思うのだが、ぼくたちはどこまで頑張り続けないといけないのか。

仕事も育児も家事も、そのやるべきものの量に際限がない。やってもやってもやらなきゃいけないことが湧き出てくる。

これだと体が先に参ってしまうだろう。かといって、なぜかそれらを拒否したり、断ったりすることができない体の仕組みになっているようだ。

どうして、こんな風になってしまったのだろうか。もっと楽に生きてはいけないのだろうか。

子どもの頃を思い出してみる

子どもの頃は、絶対権力者として、「親」という存在がいた。

親が言うことをよく聞いていれば、自分という存在は肯定され、守ってもらえた。

もし子どもが何人もいて、親の保護観察が行き届いてない場合は別だが、昨今の子どもが1〜3人くらいが平均値である現代では、あまりほっとかれる子どもが多くはないだろう。

基本的に親の目の行き届く範囲で、子どもは育てられる。そして子どもにやるべきこと(例えば、勉強など)を与えたり、行動を制限(門限を設けるなど)したりして、子どもを管理する。

会社で言えば、管理職みたいなものだ。会社であれば、どれだけ管理されるかは、その会社に依ってくるが、基本的に親子の関係では、かなりこの管理具合が厳しいと思われる。それは自分の子どもだから当然と言えば当然である。しかし会社どれだけ気が合ったとしても他人であることには変わりない。

親は子を、かなり厳しく、入念に、管理する。だから体調が悪そうだったら看護するし、欲しいものはたまに与えるし、子どもがヘロヘロにならないよう、愛を持って対応する。それを子どもは社会に出るまで続けるのだ。

しかし社会に出たら、どうだろう。会社に入社したら、もうその子どもは庇護の対象ではなくなり、一つの駒となる。ある意味製品として、会社の利益向上のために使われていく。もちろん体調面など気を遣われたりはするが、それはその駒が十分な働きをするためであって、その駒のことを心配しているわけではない。庇護の対象から外れるというのが社会に出るということなのだと思う。

社会に出て、やってはいけないこと

社会に出る時、一番やってはいけないと思うことが、今までの親を、会社側に求めることだ。つまり今まで面倒を見てきた親がいなくなったから、その対象を会社に求めるということだ。

これをするとどういうことが起きるかというと、親の言うことを聞く代わりに、会社の言うことを聞くようになってしまう。そして親にご飯を作ってもらうのではなく、会社の言うことを聞いて、その代わりに給料をもらうようになる。

こうなると完全に主従の関係になってしまう。会社側からの仕事を受けて、その対価として給料をもらう。一見悪いようには見えないが、これには致命的な弱点がある。それは先ほども書いた、主従の関係になると言うこと。つまり、仕事をやるから給料をもらえる。だから仕事をやらないと給料をもらえないと言う関係ということだ。給料をもらえないと、生きていけない。だからどんな仕事が来てもやらないといけないと思ってしまう。これだと主従の関係からずっと抜け出せなくなってしまう。

これが逆だったらどうだろうか。給料をもらう代わりに、仕事をする。給料をもらえないのだったら、仕事はしない。うん、これも別に間違っている風には聞こえない。

ただしサラリーマンの場合、給料をもらえないというケースに遭遇する確率がかなり低い。勤め人であれば、来月の給料は残念ながらゼロです、というのはレアケースだろう。

実はこの一見ありがたそうな給料がほぼ確実に入ってくるという仕掛けが巧妙である。給料と仕事が紐づいているため、給料をもらう代わりに、仕事をしなければいけないと脳が判断してしまうのだ。

もし主従関係を逆にしたいとなれば、仕事の量をどんどんこなして、それに見合う給料を増やしてもらわなければいけない。ここで給料が変わらなければ、それ以上仕事をする意味がない。なぜならそれ以上給料が増えないからだ。

ちゃんと、交換のロジックを認識して、行動するべきである。

ここが重要なポイントである。

しかし、このロジックの大前提として、給料がもらえなくなるくらいひどい状態にあるから、緊急で仕事をしてくれという交換条件がくる場合もあるだろう。これも交換条件であることには変わらず、その条件が自分にとって有利と判断できれば、飲めばいい。

これらのことは育児と家事にも当てはまる。

育児と家事の面で見てみる

次に育児である。これはどういう紐付けになっているか。

育児をする(子どもと遊んだり、保育園の送迎をしたりする)と紐づくのは、子どもがちゃんと育つだったり、親の責任を果たすということだとする。ただ、ずっと子どもと遊び続けたり、保育園関係の仕事が大変だったとする。これはうまく両者が紐づけていない。もし育児を頑張ったのならば、それに見合って、子どもの成長や親としての評価につながるべきである。それをないがしろにしているから、永遠育児をしなければいけないという奴隷精神に繋がってしまうのだ。

家事はどうだろう。掃除機をかけたり、トイレ掃除をしたり洗い物をしたりする。これらと紐づくのは家が綺麗な状態に保たれるということだと思う。これだって、ちゃんと家事をしたら綺麗になっているという自覚がないと、ずっと家事をしている気持ちになってしまうだろう。

対価を得られないと、人間はやる気を失い、行動しなくなる生き物である。

まとめ:条件反射で変だと思った時は、疑い、修正する。

このように、社会に出たのであれば、交換条件をうまく理解して行動していかなければいけない。もう社会に出たら親はいない。ましてや会社は親ではない。自分がどういう価値を伴う行動をして、どういうリターンが得られるかをよくよく考えないといけない。

それがわからず、条件反射で行動している限り、奴隷と一緒になる。なんとなくこうしなきゃいけなさそう、こう言われているからとなんとなく行動している限り、自分主体の生き方はできないのだと思う。

条件反射は楽だが、その反射している自分を客観的に捉え、何かこの反応が変だと思ったら、その原因を探る。そしてその反射の設定が誤っていると気付いたのならば、その反射装置を修理しないといけない。

この世の中には、うまく刷り込まれた他人にとって旨味のある、反射装置が自分たちの体に、知らず知らずのうちに入れ込まれている。

入れ込まれたものは、それが自分に合わなければ、取り除かないといけない。そうして自分を取り戻していくのだと思う。(もちろん、他人の好意で、入れ込まれたものもある。だが、それも自分に合わなければ改造していく必要があることには変わりない。)

以上

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