(64) 性格は、直すべきなのか?

もし、内気な性格だったら、もっと自分の気持ちを主張した方が、大人になった時楽だよ、とか。

そんな自分勝手だと、友達いなくなっちゃうからやめておいた方がいいよ、とか。

親なり先生が、子どもによく言いそうな台詞である。

この台詞の裏には、どういう意図が隠されているのか。

おそらく、親なり先生には、こうこうこうしたら楽になる人生のルートみたいなものが決まっていて、それに沿う方がその子どもにとって良いことだと思うから、それを進めるのだろう。

そして、それを言われた子どもは、確かにそうだよなと幾分かの疑問は思いつつも腹落ちして、自分の性格を修正し、周囲になじもうとする。

これは生きていく上で、つまり処世術としてはとても理に適ったもので、間違っているとは言えないだろう。

ぼくもいい大人だが、自分の性格は、理想の自分の性格とはギャップがあると感じている。

もっと自分の意見を主張できたら、楽だよなぁ(でもできない)と、よく感じる。ぼくは他人がいると、その人の意見というか考えもよくわかるので、なんとなく腰が引けてしまって、自分の本当に言いたいことを隠してしまったりする。

また精神的にダメージを負いやすく、些細な言葉で勝手に傷つき、長い間それを引きずったりする。

もっと精神的に男らしく、強い人になりたいと思った時期もあった。

しかしどう強く見せようと、自分の意見を主張しようと、ダメなものはダメだった。やろうと思っても、物凄いストレスが襲い掛かり、自分の性格を変えることを拒んだ。

よくよく考えれば、30数年その性格でやってきたのだから、抜本的に性格を変えるのは、もはや無理なのだろう。

本当に劇的なことがなければ、一生ぼくの性格の軸みたいなものは変わらないのだろう。

それは、血液型がA型の人は、B型になれないし、性別を変えるのも難しいしといった、肉体的なものなのだろう。先天的なものもあるだろうから、ぼくの性格は今のものから大元は変わらず、生きていくのだろう。

でもぼくの頭のどこかにはこういう声が聞こえる。

「今のままではダメだ。もっと改善をしていかなければいけない。そうしないと生き残っていけない」と。

確かに、成長を止めるということは、生存していくにおいて、得策とは言えないだろう。しかし、控えめな性格を、積極的にさせるみたいな芸当は、できそうにはない。ではこの声を聞きながら、悶々として生きていくしかないのか?

その答えはノーである。性格を変えた方がいいのか、それとも今のままでいいのかは、目的を達成するためのあくまで手段であることを忘れてはならない。それがどういうことかを説明していきたいと思う。

そもそも、性格を変える目的は何か

性格をもっと積極的にした方がいい理由とは、ずばり、そっちにした方が生存確率が上がるからである。自己主張を適度にした方が自分のニーズを相手に伝えることができ、欲しいものが手に入りやすい。自分の欲しいものをなかなか主張しない人と比べて、どちらが生き残りやすいかは一目瞭然である。だから自己主張は適度にした方がいいという結論になる。なぜならそちらの方が、生存確率が高いからである。

ではこの”なぜなぜ”をもう1段深堀りしていく。つまり、なぜ生存確率を高める必要性があるかということである。それは生きるためでしょうと答えるだろう。そう、人間というか生物には生存本能というのがあって、死を避け、なんとか生き延びようとする力が元来備わっている。だから生存確率を高める行動を自然と取るのは当然のことなのである。

ではさらにもう1段深堀りをして、”ではなぜ生きる必要があるのか”という問いをしてみる。ここまでくると、「うーん、そう言われてもな・・・」と回答が澱んでくる。

なぜ生きなければならないのか。それに回答を持っている人、持っていない人、考えたこともない人、さまざまいるであろう。しかしここで言えるのは、生きる理由に明確な答えはないということだ。

ぼくたちは意識した時には、すでに生きている。

よし、生きるか!と言って、オギャーと生まれた人はいないだろう。いつの間にか産んでもらって、生きているものだ。なぜ生きるのかには、元々答えは用意されてないのだ。

だから、この生きる理由については、答えを自分で用意する必要がある。その答えを求めて、悩んでいきながら生きていく。それが人生なのだと思う。

ぼくの生きる理由は”楽しむ”こと

ここでぼくの生きる理由を披露させてもらうと、ずばり”楽しむ”ことである。せっかく生まれついたのだから、死ぬまでにたくさん楽しいことをして思い出を作ってから死にたい。シンプルと言えばシンプルであるが、それがぼくの生きる理由である。理由というか生きる目的と言ってよい。

この目的を達成するためにはどうすればいいか。そのためには生きていかないといけない。鶏が先か、卵が先かみたいな話にもなりかねないが、死んでしまっては楽しむことができない。楽しむためには生存しておかないといけないわけである。

では生存するためにはどうしないといけないのか、知恵を絞るわけである。企業に勤めるのもよし、個人で稼ぐのもよし、自給自足の生活をするもよし。これらは全て目的を達成するための「手段」である。生きる目的は楽しむことである。楽しむためには死んでしまってはいけない、生存しないといけない。生存するための手段として働いたりして、お金を稼いだりするわけである。

そしてここで性格を直す話が出てくる。

性格を直すのは、目的を達成するための手段に過ぎない

もし、生存していくために、自己主張をもっと強めにした方が良いと思えば、性格を直せばよい。性格を治すのは目的ではなく、手段である。もし中国に旅行に行きたいと思ったら、どうするか。渡航手段を調べるだろう。飛行機にするか船で行くか。時間が惜しいのであれば飛行機で行くべきだと思うし、中国までの船旅を楽しみたいのであれば、船で行けばいい。

性格を直すべきかどうかは、渡航手段をどちらにすべきか悩んでいるのに似ている。そして飛行機か船か悩んでいるのに似ている。なぜ悩むのか、それは目的がはっきりしていないからである。何を目的にしているかが明確であれば、答えは出てくるはずだ。なぜ飛行機にするか船にするかで悩んでいるか、それに気づかないと行けない。

アリとキリギリスでは、アリの方が正しかったのか

イソップ物語(だったかな)のアリとキリギリスの童話は、ずっとぼくの心の中で引っかかっていた。あの話だと勤勉なアリが正しく、遊び呆けているキリギリスはダメというオチなんだと思う。

でもキリギリスは本当にダメなのか。死ぬまで自分の好きなことができたキリギリスの方が、ずっと働き続けているアリよりも、幸せだったんじゃないかと反芻していた。

最近思うのは、やはりキリギリスの生き方の方が、ぼくは性に合っているということだ。しかしキリギリスは爪が甘かった。目的(楽しむこと)を優先するあまり、楽しむための条件(生きていないといけない)を満たさなかったのだ。だから、一番いいと思うのは、食っていけて、かつ楽しむことができている人生なのだと思う。

食っていけても、楽しめないのだったら目的を達成できてないので本末転倒だし、

楽しめていても、食っていけないのだったら持続性がない。生存しているという土台ができていて、はじめて楽しむという次のステップに、人間は進むことができるのだと思う。

以上

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