(69) 人には人の正義があるということ

ゴミを公園の外に持ち運ぼうとする子ども

最近子どもと公園に遊びに行って、気づいたことがある。

子どもは公園にポイ捨てされていた空き缶を、なぜか公園の外に出そうとしていた。

ぼくはそれを止めた。わざわざポイ捨てされた空き缶を、外に出す必要はないと思ったからだ。逆に道路に出したら、ゴミが外に出てしまうことになる。

しかし子どもは執拗に、空き缶を公園の外に運ぼうとしている。なぜだろうか。

子どもが空き缶を外に持っていき、(正確には空き缶を蹴って外に出したのだが) 発した言葉を聞いてハッとした。

「ごみ しゅーしゅーしゃ」

そう、彼は捨てられた空き缶を道路側に持っていき、いつもゴミを道路の指定場所に置いておけば持っていってくれることを知っていたのだ。だから外にゴミを移動させようとしていたのだ。

ぼくはわざわざゴミを外に持ち出す必要はないと思っていたが、子どもはそのゴミを捨ててもらおうとしていたのだ。

ここで何が起きていたかというと、ぼくはゴミをこれ以上拡散させないようにという意図を持っていた。一方子どもはゴミを撤去しようとしていた。

これは、別にどっちが悪いという話ではないと思う。それぞれに言い分があって、自分にとって正しいと思うことをしている。

意見の不一致

こういうことが仕事や育児、パートナーとのコミュニケーションでしばしば発生していることに気づいた。

仕事では相手と話が噛み合わないと、なんでこの人はぼくの言っていることを理解してくれないんだろうと思って、最悪の時は相手を蔑んでいたりしていた。

またパートナーとは意見の不一致により、ストレスを抱えてしまっていたりすることもあった。

しかし考えてみると、相手には相手にとっての正義というか、論理的に筋道が立った考えに基づいて行動しているのであり、別にどっちが絶対的に正しいとか、そういうことはない。ただ単に考え方が違うというだけである。

違う考え方に接する時にはストレスが発生する。もちろんのことだが、自分と似通っている人と一緒にいた方が安心する。

しかしそこに成長はないのだと思う。ストレスは発生して辛いこともあるが、違う価値観と接さないと、自分の成長は望めない。

この考えは自分とは違うと言って、拒否することはもちろんいいことだろう。しかしその時に少しだけでも、「でも相手には相手の言い分があるんだろうな」と頭の片隅で思うことは重要だと思う。間違っても、相手の考えを蔑んだりすることはしてはいけないことなのではないだろうか。

相手には相手の正義がある。それを尊重できていないと、相手が自分を見た時に、「もしかして相手は自分のことをバカにしているんじゃないだろうか」と不安になるだろう。逆に不安に思うことがあれば、相手をバカにすることもあるということだ。自分も相手をバカにすることもあるのだから、相手も自分をバカにする可能性があるというロジックが働くわけだ。

別に相手の考えを100%理解し、許容し、受け入れる必要はないと思う。でもやはり「この人が言っていることはわからないな」と言って、切ってしまうのは、せっかく相手がいてコミュニケーションができる機会があるのに、勿体無い気がする。もちろん色々と相手を理解するために質問することには労力が発生する。だからいつも根掘り葉掘り聞く必要性はないと思うが、やはり相手を理解するためには質問をし、相手を理解しようとする姿勢が必要であると思う。

毎回はやらなくてもいいのかもしれないが、相手を理解しようとする姿勢は必要だと思う。

以上

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