(73) 日々の生活で、大切にしたいこと

今回は、日々過ぎ去っていく生活の中で、忘れがちなのだが大切なことについて、書き留めておきたいと思う。

人間の欲は、少しでも油断するとあっという間に膨れ上がってしまうので、すでに今の生活で十分満たされていることを忘れないために書いていると言っても過言ではない。

生きているだけで、もう十分だということ

ぼくたちは生きていると、ややもすると、「もっとああしたい」、「これがこうでなければいいのに」と今の生活をもっと良いものにしようとしてしまう。

だが一度考えると今の生活は楽園にいるようなものなのではないか?

食うに困らず、家族が健康で、自分も心身ともに健康である。

人間の本能として、生存本能があるとすれば、今のこの生活は最高の状態だと言えるだろう。

しかしそれは時点の話で、人間はもっと先の未来まで、その状態を継続させたいと思う。これが欲である。

この欲を持つことは決して悪いものとは思わないが、大事なことは「今でもう十分」ということなのである。

確かに未来もこの状態を続けたいと思う。そのために試行錯誤をするのであろう。別にそれ自体は悪いことではないのだが、あんまり欲を出しすぎて未来に投資しすぎると、今の良い状態が悪化するので、一概にいいとは言えないのである。

未来も良い状態を継続させるためにはどうすればいいのか?

「今」という時点でいえば、幸せな状態と言えるが、ではどうすればこの状態を継続させることができるのであろうか。

備えを蓄えるという点は効果的な手法の1つであろう。しかし残念ながら少なくともぼくはこの、「備える」という行為が苦手である。未来を先読みする力というのが元来弱く、あんまり先のことまで考えることが得意ではない。だからこの備えるという点で、良い状態を未来まで継続させることは効果的とは言え無さそうである。

ではどうすればいいのか?ぼくがいま、もっとも自分にとって合っていると思うのが、「人の役に立つ力」を磨くということである。

これはどういうことかというと、相手の目線に立ったとき、どういう人物であれば、相手が喜ばしいかというと、極端な話、役に立つ人間の方が喜ばれると思っている。

だから相手の目線に立ったとき、役に立つことができれば、未来においても自分の幸せを守ることができるのではないかと思っている。

確かに、相手が何を持って喜ぶかというのは人によって違うし、もちろん時代の流れによって変化していくものであろう。

しかしぼくの予測だが、この世には、絶対的な黄金法則のようなものが存在しているような気がしてならない。

この世に絶対的なものはないことは知っている。重力があること、時間が存在すること、太陽は東から昇り西に沈むことは絶対的と思われがちだが、明日太陽が朝昇って来なくても、何の不平不満を言う権利はないのである。もしかすると太陽は明日は昇ってこない可能性だって、全然あるのだ。

それが何万回、何億回と太陽は昇ってきてくれているので、「きっと明日も太陽が昇るに違いない」とある意味”勘違い”しているだけだと思う。繰り返しになるが、今日まで起きていたことが、明日も必ず起きると言う絶対的なことはないのだ。

しかし、ほぼ確実、ほぼ絶対と言えることはある。それが重力があることや時間が存在することや、太陽が昇ってくることだ。先ほどまでは明日はどうなるかわからないと書いたが、やはり確率としては明日も太陽が昇ってきてくれるだろう。重力もいきなり無くなったりしないし、時間の進みが急に早くなったりもしないだろう。

そういう、ほぼ絶対的な事柄が存在している以上、それに伴って”ある法則”も出来上がっていると思うのだ。

  • 人に親切にしたら、それが返ってくる
  • お年寄りや子ども、女性には優しくする
  • 時間は守る

こう言ったことは常識と思われているが、人間が生きていく上で、モラルというかエチケットというか、備えておいた方が良いと思われている。

こういった、「これをやっておけば、間違いない」と思う法則があるのだと思う。

そしてそれの根幹にあるのは生きることだと思う。人間が生きる上で必要なことが、「役に立つ」ことと同義だと思う。

最近見たYouTubeで、元テニスプレーヤーの松岡修造さんが、中国のお茶を入れる場面を切り抜きした動画あった。

もしかしたら見たことがあるかもしれないが、中国でお茶を入れるときに、とんでもなく急須から長い棒みたいなものが出ていて、それを背中に回してその棒づてにお茶を入れるのだ。

そしてそれをみた松岡修造さんの一言が面白かった。松岡さんは、

「意味ねえな・・・」

といったのである。

もちろん冗談越しに、笑かすためにそういう言葉を放ったのだが、そう、そんな無理な体勢でわざわざお茶を入れる必要性なんてないのである。もしかするとその文化が成り立っているのだから、それなりの理由があるのだと思う。その理由を聞いたら「なるほど、そういう理由があったのか」と納得するかもしれない。

しかし、初めてのものに対しては、今までの自分の経験からしてしか、判断ができないのである。

このお茶を長い急須で入れることは果たして「役に立つのか」。もちろんパフォーマンスと言う観点でいえば、意味があるのであろう。ではパフォーマンスとは何なのか。

パフォーマンスとは「おお、すごい!!」と言わせることに価値があるのだと思う。「凄い」の「凄」と言う時は、豪雨が降っている中、家にいる妻がその音を家の壁越しに聞いているさまを表した漢字だったと思う。このとき家にいる妻は「雨がすごいな」と思っていたと思う。このとき何がすごいのかというと、雨が尋常でないくらい降っている様子に感嘆しているのだ。つまり凄いとは、通常とは違うさまを見たときに発生する感情なのだと思う。

長い急須で入れるお茶も同じである。このパフォーマンスを見たときに「すごい!!」と思うのは、普通はそんなことしないからである。その感情の起伏がおもしろく、人が集まるのであろう。

人間は生きるということを、あらかたクリアしてしまった動物なのだと思う。生存という目的はクリアしている人が多くなってきたので、生きることに”飽きて”しまっているのだと思う。

そんな人は案外、この、「すごい!!」という感動に出会うことに飢えている。そこに一見何の意味が無さそうに見える長い急須でお茶を入れる行為に感動してしまうのである。

ぼくが役に立てるとすればそういうところなのではないかと思う。ぼくは特段目立った特徴があるわけではない。しかし、自分の考えに基づき、行動する”行動力”だけはあると自負している。自分を信じて「エイヤ」と飛び込める力を持っていることを信じている。

これらがもしかすると誰かの感動を呼び覚ますかもしれない。そしてそれが誰かの役に立ち、それが未来においても自分の幸せを築いてくれる源泉になるかもしれないと思った次第である。

以上

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