(81) 誰かの期待に応えられない恐怖
ぼくは昔、優等生だった。
小学校の時、とても勉強ができた。頭がクラスで一番いい子、それがぼくであった。
だから勉強ができなくなってしまうことは許されなかった。なぜなら頭がいいと、ぼくというのは一緒くたにされていたからだ。
またぼくは誰にでも優しかった。優しい子、それがぼくであった。だから優しくない態度を取ることは許されなかった。なぜなら優しくない子はぼくではないからだ。
このように、頭がいいとか優しいとかが、ぼくという個人と紐づいており、頭がよくなかったり、優しくない子はぼくではなかった。だから勉強ができなくなることも、優しくない態度を取ることも、許されなかったのだ。
これは頭がいいとか優しいというイメージを破ることにより、今までみんなに受け入れられていた”ぼく”が、イメージの変容により受け入れられなくなるという恐怖が、根底にある。
今まで頭がよかったり、優しいぼくだからこそ、みんな受け入れてくれていた。しかしそうでなくなった時、ぼくを受け入れてくれるか保証がない。だから自分と一体化した特徴を変えるのを極端に怖がるのだ。
これは大人になって仕事をするようになっても、つきまとう問題だ。
仕事は速く正確にするもの、それができてないと途端に不安になる。自分が○か×で言ったら、×の方に属してしまうと、周りから疎外されると思っているのだ。認められないと思っているのだ。
これは逆に、自分が他人をそう見ているともいえる。自分の中でダメな人、良い人の基準が出来上がっており、それを他人に当てはめ、ジャッジしている。この人は近づいても大丈夫か、それとも危険な人なのか、と。
これは生物として生き抜いていくために、必要な能力といえる。これは正しいか正しくないかをジャッジし、自分が生き抜ける道を探していく。ひどく真っ当な能力で、必要不可欠な能力だ。
しかしそれは原始時代とかそういうサバイバルな時代に特に真価を発揮するもので、この現代社会で言うと、少し勝手が違ってくる。
仕事で仮にミスをしたり、相手からの依頼にクイックにレスが返せなくても、それが即自分の死につながることはない。
しかし、◯×感覚が身に染みていると、×になるのを極端に怖がる。そんな、×になっても死ぬことなんてないのに。
逆に×を経験するからこそ、次なるステップに進むこともできる。要は自分が何をしたいのか。目先の○×に囚われる必要は、ないのである。
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