(84) 性善説なのか、性悪説なのか

性善説は孟子、性悪説は荀子が唱えたと、歴史の授業で習った。

習った時は、確か、せいぜんせつと、しょうあくせつという読み方だったと思うが、今パソコンで変換しようとしたら、性善説は変換できるが、性悪説は、「せいあくせつ」と書かないと変換されなかった。

まあそれはさておき、人間の本性は、性善説なのか、性悪説なのか、とても興味深い話だ。

ぼくの持論は、「時と場合によって、人間は性善の時もあれば、性悪にもなる」ということだ。

ただし、この性善、性悪の話をするのであれば、何が善なのか、何が悪なのかを定義しなければ話は進まない。まず善と悪の話をしよう。

善と悪とはなにか

結論から言うと、ぼくは、善も悪も、人間が生き残っていく上で良いか悪いかを示していると考えている。つまり人間が生き残っていく上でよしとされるものが善で、よくないものが悪となる。

親切であることは善であるということに、あまり異論はないと思うが、なぜ親切が善であることが一般的に理解されるかというと、人に親切にすれば社会が平和的になり争いも少なくなる。こちらの方が人間が生き残りやすい環境だからであろう。

逆に盗みは悪だというのは、盗みを容認すれば社会は安定せず、人間が生き残っていく上で不都合であるからだろう。

このように善と悪は、人間の生き残りに対しての良し悪しだと定義することができる。

人間は性善か、性悪か

では、元のテーマの、人間は生まれ持っての善か、それとも悪なのかという話に戻ろう。

ぼくの持論は時と場合により変わるというものだが、これは、善と悪の定義をした、「人間の生き残りに対しての良し悪し」という中の、”人間”を、自分という個として見るか、”人類”という大きな集合体として見るかで変わってくると思う。

例えば10人が無人島に漂流して、食べ物がなく、それぞれが食べ物を探しているとしよう。

そしてある人が食べ物をやっと見つけられた。しかし量としては自分が食べる分しかない。あとの9人にも分けてあげたいが、そうすると自分が食べる分がなくなってしまう。

このとき、他の9人に黙って自分だけが食べてしまうのは、人類という集合体としてみれば非難されてしまうかもしれない。少しの食べ物でも分けて食べるべきだと。やはり自分のことしか考えない人間は性悪だという烙印を押されてしまうかもしれない。

しかしその人個人で見れば自分という人間が生き残るためにベストな選択をしているわけで、純粋に自分がちゃんと生き残る方法を選択しているという点で生きるという行為に対し、善、普通の行為をしているとも言える。

こう見ていくと、性善・性悪というのは個人というよりも、どちらかというと”人類”という集合体として見たときに、どこまで他人のことを慮れるかという基準で善が決まり、より自己中心的な行動に対し悪と見られる傾向があるのかもしれない。

いずれにせよ、自分という個としてみるか、人類という集合体として見るかで、尺度が変わってくるように思える。

このテーマは引き続き考えて行きたい。

以上

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