(100) 友だちとはなにか

ぼくは友だちを作るのが苦手な方だと思う。

もちろん、今まで多くの友だちができて、遊んできたが、

大人になって、家庭を持ってから、友だちと遊んでないなという気持ちになる。

定期的に会う友だちはいるが、それも何ヶ月かに一度の割合だし、

学生のように、毎日のように友だちに会うということにはなかなかならない。

会社でも、ほとんど同期がいないので、気兼ねなく話すということは、しにくくなっている。

ただ最近、ぼくの中で友だちに関する認識が変わってきたので、そう言った話をしたいと思う。

友だちか友だちではないかは、自分の心持ち次第で、どうとでもなるというお話である。

友だちの定義

まずどういった人が自分の友だちなのかということについて、考えてみるとする。

ぼくの今までの認識だと、

  • 同世代
  • 同性
  • 同バックグラウンド(出身が同じだったり、大学が一緒だったりなど。生まれ育ちが似ている)

というのが、友達になりやすいものと思っていた。

これらはまさに、学校の友だちたちが当てはまり、自分と同じバックグラウンドで、男同士、タメだし、というのが、友だちになりやすい条件であった。

これはその通りだろう。要は自分と同じような人間とは、安心感があるし、群れやすいということだ。

しかし、社会に出てからは、そうはならなくなる。さっきの3つの条件が正反対の人と付き合わざるを得なくなる。

社会での人間関係

つまり、

  • 別世代(年上、年下)
  • 別性(女性)
  • 別バックグラウンド(出身地の違い、学歴の違い、社会に出てからの経験の違い)

という、学生時代とは正反対の人たちと、コミュニティを形成していかなければいけない。

また結婚して家庭を持ち、子どももできれば、パートナーという異性と協力していかなければいけないし、子どもという全く年が違うし、最初は言葉が通じない相手と、日々やりくりしていかなければいけない。

ただ、ここで、「もう大人だから」とか、「給料をもらっているのだから」と思い、我慢してしまうのが、通例なのではないだろうか。

もっと我慢強くなりなさいとか、人に迷惑をかけるのはやめなさいと言われて育つ日本人は、とかく、自分を責めがちである。

異なるバックグラウンドを持つ人たちと接していくのだから、ストレスを抱えるのは当然なのに、自分を変え、相手に合わせることで、コミュニティに属していく。そしてストレスを抱え、仕事ができなくなったり、他のことでストレス発散をさせていく。

ぼくは思うのだが、これは非効率ではないか?そもそも、ストレスを抱えないような仕組みにしておくことが重要なのではないかと思う。

しかし異なるものと関わるのはストレスがかかる。これは人間の仕組み上、どうしようもない。ではどうすればいいのか。

それは相手を自分とは異なる存在だ、と敵視するのではなく、友だちのような対等な立場を築くことだと思う。

対等な関係とは

例えば、会社での上司・部下の関係を見てみよう。

基本的に、部下は上司の指示を聞いて動くというのが、会社という事業体で基本のやり方である。

もちろん会社の目的は、その会社の存続であるから、それが果たせない時には、部下からも意見をしたり、上位上司に相談するなどしていかなければならないときもある。

それでも基本スタイルは、「上に従う」というのが普通だ。

このとき部下は上司のことを、「上司」と捉えており、指示に従わなければいけない存在、逆らってはいけない存在と思っているのが、ほとんどだと思う。

ただこれだとストレスが溜まるのだろう。言いたいことも言えないし、やりたくないのにやらなければいけない。これがサラリーマンのストレスを生み、仕事が楽しくなくなってしまう根本原因だとぼくは考えている。

ただこれには解決法があって、それが、対等な関係を築くことなのだと考えている。

つまり、相手を友だちのように接することだと思う。

周りの人を、友だちと思って接する

上司を友だちだと思うなんて、なんとバカなことを言うのだと思う方も、いらっしゃるだろう。

ただ別に相手を下に見ていると言う話ではなく、単に対等な立場にお互いをリセットするだけの話である。

ちなみにこれは会社に限った話ではなく、パートナーに対してもそうだし、子どもたちにも同様、友達のように接することが重要だと思っている。またそれ以外の人々、同じ地域で住む人々、もっと言ってしまえばコンビニの店員さんに対しても、友だちと接してしまえばいいと思う。

会社の例に戻すと、どうしても上司・部下のと言う”役割”でその人と接してしまうと、その部下という役割に自分を当て込んでしまい、自分らしさが失われてしまい、ストレスがかかる。

だからその役割、枠組みを一旦外れて、相手を見てみる。もちろんその役割の上でその人が働いているのだから、その役割のことは多少考慮する必要があるのだが、一旦外して考えてみる。

対等な立場で相手を見ることによって、さまざまなことが見えてくる。

この人も、今こういう立場で大変だよな、「上司」という枠組みがあるからその中で大変だよな、とかその人自身にフォーカスを当ててみる

そうすると、なんだか怒りが和らいでこないか?枠組みを外してその人自身を見たとき、ぼくらは初めて対等な立場になれると思うのだ。

そうなれたら、Aくん(上司)とぼくという立場に立って、お互いを思いやって行動していけばいい。

パートナーとだって、どっちが洗い物をするかとか洗濯をするかで口論しないで、夫と妻という役割を外して、Bさん(パートナー)とぼくという個人に立って、お互いを見つめればいい。そうしたら、お互いを非難することなんてないはずだ。

子どももそう。全然いうことを聞いてくれなくても、親と子という枠組みを外して、Cちゃん(子ども)とぼくという個人に立ち戻ったとき、そりゃ俺も赤ん坊の頃は同じだったよな、と思えるのでないか。

役割、枠組みは、社会を運営していく上において、非常に効果的、効率的な面がある反面、それに囚われ過ぎてしまうと、個人が失われ、ストレスが溜まっていってしまう

最後にもう一つ役割という観点で例を出すと、サッカーのポジションの話をしようと思う。

ぼくはサッカーが非常に下手くそで、ちょっと解釈が間違っているかもしれないが、ゴールキーパーとディフェンスの選手がいたとする。

ゴールキーパーもディフェンスも、失点しないようにするというのが目的のはずである。

その目的のために、お互いゴールを守る。

でも時には、

ゴールキーパー「もっとディフェンス、頑張れよな、そこにいたら攻められてしまうじゃないか」

ディフェンス「ちゃんとゴール守れよな、そんなゴロ玉も取れないでどうするんだよ」

とか、相手を非難する時もあるんではないか。

これは、目的に対して、自分が役割を果たせていないと糾弾されることを恐れて、相手を非難しているのかもしれない。

このときもゴールキーパーとディフェンスという役割を外して、

D 選手とE選手という個人に立ってお互いを見れば、そんな思いもなくなるのではないか。

毎日練習して苦しい思いを一緒にしてきた仲間。同じ釜の飯を食ってきた同志。

お互いが役割から一旦外れ、対等な個人として接した時、わだかまりがなくなり、手を取り合えるようになるのではないか。

そしてそういった二人は、しがらみから離れ、友だちになるのだと思う。

以上

by
関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です