(101) 遊びと暇

ぼくの人生の生きる目的は、

しばらく、好きなことをして楽しむということだった。

だからなるべく好きなことをして楽しめるよう、やらなければいけないことは最小限にし、なるべく好きなことに時間を割けるように工夫してきたつもりだ。

しかし、2023年も終わろうとしているこの時期になって、やっぱり人生の目的は、好きなことをすることではないのではないかと思い始めてしまった。

そこに至るまでの軌跡と、なぜそう思ったかについて、今日は述べていきたい。

結局好きなことをしても、また別の好きなことが現れる

これは結構致命的な問題で、どれだけ好きなことのために時間を作って、それにフォーカスを当てたとしても、別のやりたいことが出てきてしまい、またそれのために時間を割く労力をかけなければいけない。

本当にこれはイタチごっこのようで、際限なく続く。好きなことをやって満たしたとしても、次にまたやりたいことが出てきてしまうのだ。一生この、満たす→でもまだ不足が出る→満たす、の繰り返しをやっていくのかと思うと、うんざりしてしまうのだ。

だからぼくが考えたのは、やはり目的は目的で、別に達成できるかは置いておき、それまでの過程を楽しむということだ。

しかしこれも卵が先か、鶏が先かみたいな話で、今度はプロセスをの楽しむことが目的になってしまい、それが達成できないと、つまりプロセスを楽しめないことに、ストレスを感じてしまうことになる。

だから、プロセスを楽しむことも、結局はストレスを抱えてしまうので、根本的な解決には至らないと考えた。そして次の方針を打ち立てることにした。

何も考えない=無の境地

中国の思想家、老子は、「無為自然」といって、そのままあるがままを大切にし、抗うことなどを否定していた考え方だったと思う。それと似ていて、川の流れに身を寄せるように、何もしない、身を委ねるというのが良いと考える時期もあった。

また、瞑想や黙想をして、心や頭の中を空っぽにしてみる試みをしたこともあった。

しかしこれらも一過性のもので、24時間365日、頭を空っぽにしておくことはできない。

またやはり目的がなくフラフラしていると、何のために生きているかがわからなくなり、これもまた精神衛生上、よくないことがわかった。

ではどうすればいいのか。今、答えになるかもしれない種をぼくは見つけたのかもしれない。

それは子どもたちと遊んでいるときに発見した。

遊びの概念

ぼくには子どもがいて、子どもたちで遊ぶのを、横にいて見守るということを、休みの日はよくやっている。

子どもたちはそれぞれで勝手に遊ぶが、大人のぼくとしても、1時間も2時間もそれを見るだけだと飽きてきて、暇なので、遊びを考案して、それを子どもたちに提案する。

落ち葉を拾ってきてお金の遊びを提案したり、

缶けりを提案したり、

どこかの公園に遊びに行こうと言ったり、

新しいボール遊びを提案したり、だ。

ぼくはこういう子どもっぽいところが大人になっても残っており、子どもたちに新たな観点の遊びを提起することが得意だ。

子どもたちをみていて少し思うのだが、既存の遊びにはまってしまってやいやしないかということだ。

ぼくが子どもの頃は、もっと自分たちで遊びを考案していた気がするが、最近の子は何というか、公園のこれで遊ぶとか、走るくらいで、自分たちで遊びを考案して楽しんでいることが少ない気がしている。

もっと空想を膨らませて遊ぶことが、本当の遊びのような気がしている。結構ぼくも子どもにYouTubeなど見せて楽をしているところがあるので、あるものをそのまま受けることに慣れさせてしまっているのかもしれない。

だから時たま山に家族でキャンプに行くのだが、その時、子どもたちは自然に帰るというか、とても生き生きしている気がする。それが子どもというか、人間のあるべき姿だと思うのだ。

テレビとかゲームとか、そういう刺激物で暇を潰すのではなく、自分で創作した遊びで、遊んで欲しいという、親の勝手な願いである。

この遊びの概念と、あともう一つ大事な要素があると思っていて、それが「暇」の概念である。

暇の概念

スマホが普及するまでは結構暇な時間があったと思う。いわゆるスキマ時間というやつか。

電車に乗っても本がなければボーと外を見ていたし、

授業中の休憩時間だって、もちろん携帯は見てはいけないから暇だったし、

家に帰ってもテレビも携帯も見てはいけなかったから、暇だし。

この暇で手持ち無沙汰な時間というのは、今思えば非常に貴重な時間だったと思う。

無の境地から、何かを生み出して、暇という大敵を倒さなければならなかった。

しかし今は簡単にスマホから刺激的な情報をいくらでも搾取することができる。

これは、ぼくはいけないことだと思っている。

スマホまたはインターネットからは、いわゆる「役に立つ」情報が時間と労力と、場合によってはお金をかければ、いくらでも大量に仕入れることができる。そしてスキルアップすることができる。

ぼくの趣味である写真も、昔はどこか有名な写真家さんのアシスタントをしたり、

写真学校に入らないと得られなかった情報たちが、ごまんとネット上に転がっている。

そのおかげで、家にいながらスキルアップができるのだが、そうまでして得られるスキルに、どこまで価値があるのか。

結局みんなスキルが上がるのだから、別に自分だけ頭一つ抜け出せるということはできない。ネットで調べるのは、あくまで最低限やれることになってくるだろう。

そしてぼくはネットから遮断され、現実世界で自分とあと他の人しかいない生活が、非常に大事だと思う。

結局人は一人では生きていけず、誰かと協力し合って生きていかなければいけない。

あとよく思い出すのが、大学生の入学当初、誰も友達がいなく、今だったらスマホを見て一人で閉じこもる人もいるんではないかと思う。

確かぼくはその時まだガラケーで、メールを打つくらいしか用途がなかったから、携帯に閉じこもるということができなかった。それは他の学生も同じだったと思う。

暇で寂しいから、とりあえず前の席とか隣の席にいた、話しやすそうな人に話しかけて、友達になったものだ。これもスマホという逃げ道がなく、現実世界にとどまるしか方法はなかったから、友達ができたと言っても過言でもない。

暇だからといって、仮想世界に逃げるのではなく、現実世界でその暇と向き合う。それがやはり現実世界で生きるぼくらの、やるべきことなんじゃないかと思う。

まとめ

ここまでをまとめようと思う。

・最初は、好きなことをすることが人生の目的だと思っていたが、それだと際限がなく、少し疲れてきた。

・プロセスを楽しもうと思っても、今度はプロセスを楽しむことが目的になってしまい、ストレスになってしまう。

・何も考えない無為自然の型を取っても、目的がなさすぎて、元気が出なくなってしまう。

・最近子どもたちと遊んでいて、暇なのでその暇を潰すため「遊び」を考案することが楽しい。

・「暇」というのは大事。現実世界で自分の頭を使って「遊び」を考案できる。スマホやネットで遊んでしまうと、刺激だけしか得られない。

こういったことを今、考えている。人生の目的がまだ決まったわけではないのだが、この「遊び」と「暇」の概念が、突破口になるニオイがしている。

もう少し考えを深堀りしていきたい。

以上

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