(108) 自己チューと、自分中心に生きる、の違いは何か

ぼくの中でいわゆる「自己チュー」と呼ばれる人間と、それとは全く別の観点で、自分の中で確固たる軸や意志があり、他人のいうことに振り回されない「自分中心的」な人との違いについて、ずっと考えてきた。

双方とも、自分の気持ちを大切にするという点では同じなのに、前者の自己チューはひどく嫌われるのに対し、自分中心で軸を持っている人はすごいといった風潮がある。

この違いはなんなのか、ずっと不思議だった。

今回その謎が少し明らかになったのでシェアしたい。

主観と客観で物事を捉えられているか

結論から先に言うと、まずそもそも物事を2つの軸、つまり「主観」と「客観」で捉えられているかというここにかかってくると考える。

次の図を見てもらいたい。

この図では、X軸に、主観的な見方、つまり、自分のことを自分がどう認識しているか、自分はどう思っているのか、どう感じているかという主観的なものの見方の強さを表している。

右に行けば行くほど、自分の考えを大切にし、
左に行けば行くほど、あまり自分の考えを大切にしない、ひいては自分をも大切にしないという考え方になる。

一方Y軸は客観的なものの見方を示しており、他人からどう見られるかを気にしたり、あるべき姿が決まっているとき、それに対し自分がどの位置にいるかを俯瞰的に見られる力のことを指す。

そしてこのマトリクスを4つに分けたとき、

  1. 自分中心で自分に軸があり、セルフマネジメントができている
  2. いわゆる自己チュー
  3. 他人の言いなりで、人からの評価を気にしている
  4. 無気力で自分には何の力もなく、どうでもよくなっている

この4つに分類することができると考える。

まず1。自分に自信があり、自分の考えを大切にしていて、かつ、周りからどう見られているかも客観的に捉え、謙虚になれる。ここを人は目指すべきだと考える。

そして2。ここは自分の考え、やりたいことは明確になっているが、周りが見えてないので、どうしても自己中心的で、身勝手な行いをしているように見られてしまう。

次に3。ここは自己肯定の気持ちが低い代わりに、他人からどう見られるかとか、あるべき姿に頑張って追いつこうと、自分に鞭ばっかり振るってしまう。そして他人にもそれ(あるべき姿に一致すること)を強要してしまう。以前までのぼくがここに位置していた。

最後に4。ここは自分の気持ちも大切にできないし、さらに他人に対してもやる気を起こさず、完全無気力状態になっている。

他人を優先して疲弊する人が多いのではないか

今までのぼくは完全に3の、「言いなり」のエリアにいた。自分どうこうよりも、他人を優先するのが美と思っていたし、自分よりもみんなが共通認識として持っているあるべき姿に、少しでも自分を当てはめようと躍起になっていた。

ここでいうあるべき姿とは、例えば理想の父親、理想の会社員、理想の先輩、理想の夫などという世界中の平均値を取ったような人物像だ。それを100点満点として、日々自分をそこに当て込んでいた。

当然自分のあるがままではいられないので、大なり小なり自分を偽り、高得点を狙っていた。しかしそれではずっと自分を我慢させることになり、疲労感が酷かった。

でも、自分以外にもこういう人は多い気がする。自分のことはさておき、集団の中のあるべき姿を求め、それに当てはめようとする人が。

もちろんそういった目標やあるべき姿を設定し、それと自分とのGapを認識し、それを狭めていく行為自体は、高みを目指す上で必要な行為であり、むしろ良い行いだと思う。

ただ、それが行きすぎて、自分の思いや考えより優先してしまうと、他人軸で生きることになってしまい、自分を傷つける行為にもなりかねないため、注意が必要である。

自分と他人、双方を活かす生き方を。

一番良いというかバランスがいいのは、自分の思いを大切にしつつ、他人からどう見られているか、目標とどれだけGapがあるかを客観的に見られる力を持つことだと思う。それをするためには、昨日の自分と比べて今日どれだけのことができたかという、自分軸の主観的なものの見方と、一方ありたい姿と比べてどれだけGapがあるかという客観的なものの見方、それぞれ最初に出した図の右上にどんどん推進していくような生き方で、ストレスなく生きていける生き方なのではないかと思う。

以上

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